
旅人の天晴れ『上杉本洛中洛外図屏風』の話

▲山形県米沢市の伝国の杜にある国宝・
上杉本洛中洛外図屏風(レプリカ)
この屏風の作者と内容について
これは洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)と呼ばれる屏風で、米沢藩上杉家に伝来する屏風なので上杉本と呼ぶ屏風である。この絵の作者は
狩野永徳という画家で、
織田信長や豊臣秀吉の
活躍した安土桃山時代に人気があった方です。
絵の内容は京の都を描いた作品で約2500人の人々が描かれており、京の華やかな生活風景を
描いたもの也。この屏風は平成7年に国宝に指定されました。
屏風(びょうぶ)とは、風や人の視線を防いだりする『仕切り』として使用される室内用具である。
材質は和紙で作られており、そこに絵を書いてインテリアとしての美術品的な機能も備えている。

何のために描かれ存在するのか?
この屏風は織田信長が、上杉謙信に贈物として差し上げた物とする説がもっとも有力説。
織田信長がもっとも恐れていた相手が
上杉謙信で、あらゆる贈物をして戦争になら
ないように、ご機嫌をとっていたのだ。
戦国武将は友好や同盟関係のため
贈物をして信頼を築いていた。
▲米沢市の伝国の杜で確か300円ぐらいで購入!


▲上杉謙信 ▲織田信長
織田信長が上杉謙信を恐れていた理由
織田信長は武田家を長篠の戦で勝利すると、その後武田家を追い込み亡滅させた。
天下統一を狙う織田信長にとっては、次に関東を統一する上で、邪魔な存在だったのが
越後の領主・上杉謙信だったのだ。

▲上杉本洛中洛外図屏風のもう1枚の屏風
当時の上杉家では、新潟で収穫される服の材料となる青苧(あおそ)を、京の都へ運び売りさばいて資金を得ていた。新潟産の青苧は丈夫で質が良く長持ちするので、よく売れていたのだ。
さらに越後では佐渡の金山があるため、その莫大な資金が
上杉謙信を恐れる原因だったのである。
資金=軍資金>兵の数・道具>戦に強い国
よって織田信長が上杉謙信に、屏風を贈ったのも『天下布武を誇示しようとして贈った』という説が
高いようです。信長は表では謙信に対し友好関係を見せていたが、裏では関東方面の国へ
「共に越後を攻めないか?」という書状を送っていた。
結局それが謙信の耳に入り、織田家と上杉家は敵対国となった。
この絵を描くのに、どんだけ日数がかかったんだろうな~
もっとも織田信長は京の都を焼き払ったので、信長が描かせた屏風ではなく室町幕府の足利家
周辺から贈られた物ではないのだろうか?という説もある。
ともかく実物の上杉本洛中洛外図屏風は非常に大きく、近くで見ると金色に輝く色が特徴的で
ジーッとその場で時間を忘れ眺めてしまうほどの出来栄えだった。
現在では色がくすんで黒ぽくなってはいるが、当時はそうとう黄金色に輝く絵だったろうに。
本物はどこにあるの?
上杉本洛中洛外図屏風の本物は、伝国の杜の上杉博物館内にあります。
随時展示している物もありますが、それはデジタルコピーされたものであり
本物は年に2期間中に同館で公開されています。米沢上杉まつりの期間中なら大抵展示している。
屏風の絵は気温やライトの光に弱いようで、年に2期間までしか展示しないそうだ。
記事のコメント