伊達・蒲生から上杉の城下町へ 米沢城

▲上杉神社。
米沢城(よねざわ)の本丸跡
- ・場所:山形県米沢市丸の内1-4-13
- ・駐車場:米沢城周辺にいくつか駐車有(無料)
- ・米沢市の名物・特産品:米沢牛、米沢鯉、舘山りんご、うこぎ、雪菜、織物、笹野一刀彫
- ・宿泊先:米沢市格安宿泊ホテル旅館
伊達家17代・伊達政宗の誕生の地
今では米沢城は、上杉の城下町であるが伊達家8代・宗遠から17代・政宗までの212年間は
伊達家が米沢を支配していた。伊達政宗・幼名・梵天丸(ぼんてんまる)は永禄10年(1567年)
8月3日に父・輝宗の嫡男として米沢城に生まれた。母は
最上義光の妹の義姫(よしひめ)。


▲米沢城の正面入口 ▲享保10年(1725)の米沢城
伊達家は奥州仕置により領地没収される
政宗は、天正5年(1577年)11月15日に米沢城で元服し『藤次郎政宗』(とうじろう)と名前を変えた。
時の天下人・豊臣秀吉が天正18年(1590年)正月に、北条氏の小田原城を攻めるから参陣せよと
命令を受けたが、伊達政宗は北条氏と組んで天下を狙おうと企んでいたので参陣しなかった。
しかし秀吉軍の圧倒的な数により、北条家が勝つ見込みがないと知ると渋々送れて参陣した。
秀吉軍が勝った後に、迅速に参陣しなかった伊達家は米沢を没収されてしまったのだ。


▲伊達政宗誕生之地と書いてある ▲仙台・青葉城の独眼竜政宗
現在も米沢城の本丸内に、ぽつりと残されている伊達政宗誕生之地の跡。伊達政宗は18歳で
家督を継ぎ会津の芦名氏を破るが25歳の天正19年のときに奥州仕置により岩出山城に移された。
米沢城は蒲生氏から上杉氏に


米沢はキリシタン大名 蒲生氏郷が支配
奥州仕置後に蒲生氏郷(がもう うじさと)が
60万5千石を与えられると、米沢は支城として
蒲生郷安が入居し松ヶ岬城と命名。氏郷が亡くなると秀行が13歳で家督を相続するが慶長2年
(1597年)に内紛が起き、秀吉に統制能力がないと見なされ宇都宮18万石に減封。
蒲生氏の米沢支配は7、8年で終わった。
▲米沢城本丸にある
上杉謙信の像
上杉氏が越後から会津へ120万石で移封
上杉景勝は慶長3年(1598年)に、蒲生氏の領土であった会津と米沢92万石を与えられ
これまで所持していた佐渡と庄内を合わせ120万石となった。米沢城へは、上杉景勝の重臣
直江兼続が城主として入り、米沢は幕末の13代茂憲(もちのり)まで上杉家の居城となった。


▲上杉謙信祠堂跡『御堂(みどう)』 ▲従三位・上杉曦山公之碑(ぎざんこうのひ)
度重なる石高削封と上杉鷹山公の登場

会津120万石から米沢30万石へ
上杉家は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦で
西軍側につき戦ったため、慶長6年(1601年)7月26日に
上杉景勝は大阪城で徳川家康に背いたので120万石から
30万石へ削封されてしまった。(参照・
長谷堂城合戦)
貴重な金の調達場の佐渡の金山も失い禄を3分の1に
減らされ、越後時代から居た家臣や社員・およそ6千余りがそのまま景勝に従い米沢へ移ったため、財政が困難になり大変苦しい時代を迎えた。
上杉家存続の危機と15万石の削封
さらに上杉家3代・綱勝(つなかつ)には、子も養子もいない状況で腹痛で急死したため、跡継ぎがいない上杉家は
幕府により改易されるのが当時のルールだったが、上杉家存続のため会津藩主・保科正之(ほしな まさゆき)の尽力により綱勝の妹・参姫と吉良義央との間に生まれた子の
▲米沢城 上杉鷹山公(ようざん)
綱憲(つなのり)を、上杉家の養子にすることにより上杉家の存続を認められた。しかし領地の15万石を取り上げられてしまいさらに苦しくなった。吉良義央(きら よしなか)とは『忠臣蔵』で有名な
吉良上野介(きら こうずけのすけ)のこと。
雪だるま式に増える借金地獄
米沢藩は普通の藩の2,3倍多く下級武士を抱えてたため、藩の財政は思うようにいかなかった。
さらに徳川幕府による江戸城の橋や石垣製作の費用の負担や、吉良義央や綱憲の華美な生活に
より増え続ける借金。大火事で建物が焼失しても、能の舞台を作ったり新たに建物を新築したりして借金は増え続けた。
高金利で商人に金を借りていたため、借金が増えに増え上杉家9代・
上杉鷹山公の時代では
米沢藩の借金は約16~20万両になった。(今の金額で約100~120億円)
当時、米沢は全国で1番貧乏な藩だったらしい。幕府に藩を返上するかどうかの極致を迎えた。
幕府に藩の返上=自己破産

『なぜば成る なさねば成らぬ 何事も』
上杉鷹山公は借金返済のため、自らの給料を削減し、当時の下級武士以下の生活だと言われている『一汁一菜』の食事をし木綿の服を着て、自ら藩の手本となって大倹約を行った。
その甲斐があって今の米沢ができた。故に
米沢では上杉鷹山は尊い存在にあり名前に
”公”を付けて呼ぶのが一般化している。
▲家督を譲り隠居してから名前が鷹山になった
米沢城内にある上杉神社と松岬神社

上杉謙信を祀っている上杉神社
米沢城の本丸・奥御殿跡には
上杉神社が建てられています。この神社は明治5年(1872年)に建てられ上杉家の祖・上杉謙信を祀っている。
上杉鷹山公も一緒に祀っていたが、後から別にして祀ったので上杉謙信のみを祀る神社となった。
現在の上杉神社は大正8年(1919年)に、米沢大火で焼失してしまい大正12年に再建された神社。
▲米沢城の本丸跡・上杉神社

米沢につくし功績を称え祀った松岬神社
こちらは上杉神社の参道側にある松岬神社。この神社は上杉景勝・鷹山公・直江兼続・細井平州・竹俣当綱・莅戸善政を祀っている神社。
上杉鷹山公は明治35年(1902年)に、別格官幣社という位に昇進されるときに、上杉神社から松岬神社に祭神として移された。
▲松岬神社(まつがさき)
上杉家の歴史と遺品が残る 伝国の杜と稽照殿


▲上杉博物館 伝国の杜(でんごくのもり) ▲上杉神社 稽照殿(けいしょうでん)
左の伝国の杜は米沢城の二の丸跡に作られた博物館で、イベント毎に上杉家の歴史の展示物が
飾ってある博物館です。織田信長がもっとも恐れていた上杉謙信に対し友好関係を築いておこう
として贈った、具足や京の鮮やかさを描いた国宝上杉本洛中洛外図屏風が印象的でした。
伝国の杜/開閉:9:00~17:00 料金:一般400円、学生100~200円
[伝国の杜]米沢市上杉博物館・置賜文化ホール右の稽照殿は上杉神社のすぐ隣にある建物で、上杉家に関する宝物や遺品を約1000点納めて
いる。直江兼続の愛の前立てや、上杉謙信・鷹山公の遺品などや刀剣類が納められています。
米沢城内にはないが(財)宮坂考古館にも、長谷堂合戦で着用した直江兼続の鎧兜や
多くの有名な上杉家の武将の鎧兜が展示されいるのでオススメです。
稽照殿/開閉:9:00~16:00 料金:一般400円、学生200~300円 その他:12月~3月は要予約
米沢城は基本的に米沢市周辺に行くと、米沢城行きの看板が多いため迷うことはないだろう。
駐車場は2箇所有り、どちらも無料で止めれます。赤い矢印の方向から車で進入することになる。
おまつり広場では上杉まつりの会場でもあり、確かイベント時期では駐車はできない。
お食事所は右の駐車場付近や、米沢城内のトイレのある所と上杉伯爵邸で食べれます。
上杉まつりやゴールデンウィークの時期になると、米沢城には多くの観光者が訪れるため
無料駐車場に止めるのは、ほぼ不可能な状況になるだろう。
故に他の駐車場を探さなくてはならない。(ありえないほど車で混雑して渋滞になる)
『米沢城』関連サイト
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