
旅人の天晴れ『直江兼続の逸話』の話

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直江兼続(なおえ かねつぐ)の銅像
直江兼続にはいくつかの逸話があるので、それをご紹介しましょう。直江状にしても内容をただ
伝えるだけではなく、反論しているところが直江兼続らしさを感じ取れるものだ。

閻魔大王に手紙を出す
- ある時、直江兼続の家臣の三宝寺勝蔵が
下人の家来を斬り殺した。その罪は斬り殺すほどのものではなかったらしく
殺された家族達が怒り、直江兼続へ
「死んだ者を元通りして返せ」と言ってきた。
直江兼続が翌々話を聞くと、三宝寺勝蔵が
軽率な行動をとってしまったようだ。
とは言え、やはり死んだ者を生き帰らすなどとは当然無理な話なので、直江兼続はその家族達に
銀20枚を慰謝料として払い「死んだ者は生き返らないし、これで堪忍してほしい」と言った。
しかし殺された家族の者達は、それに納得せずやはり「死んだ者を返せ!」と言ってきた。
そのように言われた直江兼続は、「それほど返してほしいと言うのなら仕方がない
冥途から連れ戻してやろう。でも、あいにくこちら側は冥途へ呼びに行く者がいないから
大儀ではあろうがそちらの遺族の方々が冥途まで呼びに行って来てくれ」と言い
その遺族3人の首をはね、閻魔大王宛に『三宝寺勝蔵の家来が不慮の死を遂げ遺族の者達が大変嘆き、呼び返してほしいと言うことなので、遺族の者を使いとして迎えに送りました。死者をお返しくださいますよう、どうかお願いします』
閻魔大王様へ。と書いて遺族の首の脇に立て札を建てたそうだ。

伊達政宗を無視し、大判を投げ返す
- ある時、江戸城の廊下で直江兼続は伊達政宗とすれ違った。そのとき伊達政宗は大名の地位に
いる存在なので「私に何の挨拶をしないで通り
過ぎるとは無礼者!」と言ってきた。
直江兼続は少しもひるまずに「長年戦場で何度かお目にかかったことはありましたが、いつも後ろ姿ばかりで正面から見るのは初めてなので一向に
気づきませんでした」と言ったそうだ。
ある時、上杉景勝と直江兼続が大阪城へ上洛したときに、伊達政宗が諸大名達に
「珍しい物を見せてやろう」と言い天正大判を見せた。天正大判とは天下を統一した豊臣秀吉が
天正16年(1588年)に作った量目44匁(165グラム)の史上でもっとも豪華な大判。
直江兼続にそれを見せると、扇を広げその上に大判を乗せて眺めた。そのとき伊達政宗は兼続が
上杉家の陪臣だから遠慮しているのだろうと思い「直接手で触って眺めて良いぞ」と言った。
すると直江兼続は「自分の手は上杉謙信公の代から、先陣の指揮をまかされた手である。誰の手に渡ったか
分からぬような物を触れば手が汚れるから、大判を扇に載せて見ていたのだ」
と言い、大判を眺め終わるとボイッと伊達政宗の膝下へ大判を投げ返したそうだ。
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