米沢の礎を築いた愛の前立ての知将、直江兼続


与板町の直江兼続
直江兼続(なおえ かねつぐ)の像。新潟県長岡市の歴史民俗資料館

2009年に直江兼続が主人公のNHK大河ドラマが『天地人』(てんちじん)公開決定!
原作:火坂雅志さん 脚本:小松江里子さん 直江兼続役:妻夫木聡さん
戦国なるほど豆知識
やっぱり直江兼続が一体をした武将なのか、イマイチな方向けにまとめました。
結局、直江兼続は何した人なの?

愛の前立て兼続の肖像画
実際被ったかどうかすら分からないが、愛の字の兜の前立を付けて戦ったと伝わる

新潟県南魚沼市で生まれる
直江兼続は、永禄3年(1560年)越後国南魚郡上田庄の坂戸城下で生まれました。
現在の新潟県南魚沼市です。父は、坂戸城主・長尾政景(上杉景勝(かげかつ)の父)に
炊事係として仕え名は上田衆樋口兼豊(ひぐち かねとよ)。直江兼続は長男として生まれ
直江家を継ぐまでは樋口与六(よろく)。兼続は幼いころから学問を好み、利発だったという。

愛の前立て
愛の前立てを付けた由来
愛の字の前立を付けた理由は、愛宕明神や
愛染明王など軍神的な要素を取り入れた説。
上杉謙信の『義』に対するの教えを学び、愛国心を常に持つためなど、色々と説はあるが
どれも正確な説はなく由来の資料もない。故に直江兼続が愛立物を付けた理由は定かではない。愛の前立て以外に、野球のバットを2つ重ねたような立物を付けていた時期もあった。
      ▲天地人の自販機の愛の前立て

米沢上杉神社
上杉謙信の養子・景勝との出会い
直江兼続は幼少の頃から才に長けていて
それが上杉景勝の母(上杉謙信の姉・仙洞院)に認められ、5歳年上の上杉景勝の小姓(近習)
として仕えた。主従の関係というより、お互い兄弟
のような仲で学び成長していったようだ。

長尾政景が亡くなると、景勝は謙信の養子になり直江兼続も謙信の元で『義』の精神を学んだ。
                                   ▲米沢市上杉神社 上杉謙信の像

少年時代の直江兼続は上杉謙信のもとで『目先の利に捕らわれず、背筋を伸ばして生きることが
”義”の精神』だと教えられ、義の精神を学んだという。

系図直江家の家紋
▲樋口家・直江家の系図                  ▲直江家の家紋

後継に恵まれず、直江家絶える
直江景綱には男子がいなかったので、信綱を養子に迎えた。御館の乱にて信綱が死後
兼続が直江家の養子になる。

兼続とお船(せん)の方には一男二女の子が居たが、景明は元和元年に病死。
二女は早世。本多正信の次男・正重を養子に迎えるが、慶長16年に本多家に戻される。

川中島合戦
▲八幡原神社にある武田信玄と上杉謙信の像

直江兼続が生まれた時代背景は、永禄3年(1560年)に織田信長が今川義元を桶狭間で討ち取り
永禄4年(1561年)には武田信玄と上杉謙信が、川中島で一騎打ちをしたと言われている時代。
武田信玄は天正元年(1572年)に死去。


上杉景勝の命により直江家を相続


与板城の写真城の一本杉
▲新潟県長岡市、与板城(城山)の本丸跡       ▲兼続が会津移封の記念に植えられた杉

上杉景勝と上杉景虎との後継者争い、御館の乱
1578年3月13日に上杉謙信の急死後、上杉景勝ともう一人の養子の上杉景虎(北条氏康の子と
言われている)とで後継者相続で揉めて『御館の乱』が起こる。上杉謙信が急死のため、どちらに
後継者を相続させるか決めないまま亡くなったのだ。景勝派と景虎派とで分裂したが
兄・北条氏政と武田勝頼の連合軍により上杉景虎派が有利と見た武将が多かった。

謙信が亡くなると景勝は遺言と称し春日山城の本丸・金蔵・武器蔵をすばやく押さえた。金蔵には
およそ3万両あったそうだ。勝頼には東上野と1万両を贈り、引き抜き北条側との連携を断つのを計った。武田家はその頃、資金巡りが困難だったのかそれに乗ったが、和議は途中で切れ武田家は
甲斐へ帰国。その後景勝は勝頼の妹・菊姫と婚姻し、天正7年(1579)3月17日、景虎は小田原へ
逃れようと鮫尾城(新潟県妙高市)の堀江宗親に頼ったが裏切られて妻と共に自害した。

名家存続のため直江兼続が養子になる
兼続は父・樋口兼豊と兼続の生家・上田衆と共に奮戦し、上杉景勝側の勝利に終わった。
しかし戦の恩賞が上田衆ばかりに多く与えられ、その論功を巡り仲間同士の反乱が起きた。
この内乱により与板城の城主・直江信綱が毛利秀弘に斬殺された。上杉景勝は名家・直江家の
存続のため、直江信綱の妻・お船の方に兼続を婿として結婚させ、直江家を継がせ
その時に『直江兼続』と名を称した。


直江兼続の合戦と本能寺の変


与板城お船清水武田神社の写真
▲お茶の時に使用したと伝わるお船清水           ▲山梨県甲府市、武田神社

伏兵を忍ばせ新発田家を討つ
天正15年(1587年)10月、戦果取り分で争った豪族・新発田重家(しばた しげいえ)の討伐のため
自ら兵を率いて梶城攻略に出兵した。軍を2つに分け、本隊を東に潜みもう一方ははるか遠の西に
隠した。北と南側はわざと空けておいて、合図と共に西片の焼草を積み上げていたのに火を放ち
弓と鉄砲で奇襲をかける。砦から新発田勢が出てきたが東に潜んでいた直江勢が不意に出てきたので、新発田勢は北や南へ兵は退散したが、もう一方に潜んでいた伏兵が討ち取った。

一方本隊の方は三方が無人になったのを見計り、あっさりと城内に入り本丸を占領した。
その後、兼続は合戦上手の名将と知られることになった。

織田信長左、織田信長。右、織田家に伝わる当時の宣教師が描いた織田信長だと言われている肖像画。

武田家滅亡と上杉家の危機
天正9年(1581年)直江家を継いだ翌年の頃の時代は、上杉景勝が背後の守りのため武田勝頼と
同盟を組んでいたが織田・徳川・北条の連合軍により武田家は滅亡し、その後上杉家が狙われた。さらに会津家の蘆名盛隆からも狙われ、上杉家は崩壊寸前まできていた。しかし天正10年(1582年)に、本能寺の変により織田信長が明智光秀に討たれたことにより事態は急変した。


上杉家は豊臣秀吉の傘下へ


徳川家康の像
直江兼続は長高く、姿容美しく、言語清朗な智将
豊臣秀吉が柴田勝家と実権の争いで、秀吉が勝利すると上杉景勝と提携を結び天正14年(1586年)に
上杉景勝と直江兼続は大阪で初めて豊臣秀吉と
面会し、上杉景勝は秀吉の重臣となった。

その2年後、兼続は2度目の上洛で秀吉から豊臣の姓を許され正式に山城守(やましろのかみ)に任じられた。直江山城守兼続。佐渡平定、奥州仕置や検地・刀狩りに関わり実行していった。

豊臣秀吉は直江兼続を
「天下の政治を安心して預けられるのは兼続など
数人にすぎない」と言った。
徳川家康も一目置いていたらしく「長高く、姿容(かたち)美しく、言語清朗なり」と智将として見ていた。


上杉景勝は秀吉の5大老まで登りつめる。
豊臣5大老=徳川家康、前田利家、毛利輝元
上杉景勝、宇喜田秀家
 ▲徳川家康銅像Graphic by (c)Tomo.Yun

豊臣秀吉が天正18年(1590年)に全国平定を果たすと、翌年・天正から文禄に年号が変わる。
上杉景勝と直江兼続は朝鮮に出兵する。豊臣秀吉はもしも東北で反乱が起きた場合のためとして
日頃から信頼していた景勝と兼続を、慶長3年(1598年)に越後から会津120万石へ国を
移封させた。兼続は39歳に米沢の城主に任じられた。その半年後、豊臣秀吉が死去する。


直江兼続、前田慶次との出会い


前田慶次供養塔
かぶきもの前田慶次利貞(としさだ)
前田慶次は織田信長の武将の滝川一益
(いちます)の子で、加賀百万石の前田利家の甥にあたり利家の兄・利久に子がいなかったので慶次が養子になって前田姓をなのるようになった。

戦のときは頭には山伏頭巾をかぶり、黒皮胴の
具足と猩々緋の陣羽織、金泥の数珠のふさに
金ひょうたんを身に付け、自分の馬の松風にも
                                 ▲堂森善光寺にある前田慶次供養塔

山伏頭巾を被らせているという変わった格好をしていた。前田利家をだまして水風呂に入れ
自ら出奔し放浪の旅をしていた。他国からは高禄で仕官の誘いはあったが、平凡な日々が嫌だったのか断っていたそうだが、京を旅していたときに兼続と出会い、兼続が仕官を要請したら
自分の自由のうえで勤めるならOKということで上杉家に仕官した。

上杉景勝は、学者の直江兼続と前田慶次は気が合うみたいなことを言っていたそうだ。
米沢市の堂森善光寺の裏辺りに無苦庵が昔あったらしく、そこで自由に暮らしていた。
(*現在は跡すらない。慶次清水と供養塔のみ)

亀岡文殊堂
亀岡文殊堂で連歌をする
高畠町にある日本三大文殊の一つの亀岡文殊では、兼続の呼びかけで前田慶次
他多くの武将達で連歌をしたという。

前田慶次は文学に優れていて詩も一流だった
らしく、その時の歌は亀岡文殊堂奉納詩歌百首として今も残されている。
       ▲高畠町にある亀岡文殊堂


直江兼続、上杉景勝の謀反の疑いにより直江状を記す


会津若松城の写真1会津若松城の写真2
福島県会津若松市、若松城(黒川城)。越後国春日山から120万石で入封

慶長5年(1600年)上杉景勝はその頃会津で、城や道路・橋の整備、武器の調達をしていた。
その行為が上杉景勝に、謀反の志ありと越後の堀秀治、出羽の戸沢政盛などらから徳川家康に
密告され、徳川家康は上杉景勝に上洛を迫った。

神指城
慶長5年(1600)3月、上杉景勝は福島県会津若松市神指町で神指城を築城しようとしていた。

しかし上杉景勝は経営で多忙らしく上洛はしなかった。一方直江兼続はそれに反論した書状を送り
上杉景勝に反略の意思がないことを伝えた。それが通称『直江状』と呼ばれる書状である。
現存する直江状は、原本は残ってなく後世の写しで、実際は長い文章だが簡単な内容からすると

  • 一.上杉景勝は会津に移されたばかりで、経営が忙しいので上洛したくない。
      というより10月から3月までは、こちらは雪国のために動けません。
  • 一.武具の調達については、田舎者の我らは未だ戦国の世が忘れられず武具や兵量を集めている。
      それは上方の武士が茶器を集めるのと同じことだ。田舎者とでは風習が違います。
  • 一.城・橋・道路の整備は、道を整備して交通の利便性を図るのは国の勤めとして当然のことだ。
      それに十方向に道を作ってしまっては、城を守るための道の整備でないことは分かるだろうに。


畑谷城長谷堂城
▲畑谷城                        ▲長谷堂城

天下分け目の関ヶ原合戦の始まりと、山形の最上家との争い
この直江兼続が書いた直江状を読んで、上洛の意思がないと知った徳川家康は激怒したようだ。
天下取りのためなのか、怒りからなのか上杉景勝を攻めることを決断し大阪城を離れ江戸城から
下野小山(栃木県小山市)へ陣をおろした。しかし西軍の石田光成の挙兵の知らせを聞くと
徳川家康はそれに備えるために最上義光と伊達政宗に上杉討伐をまかせ、西へと引き返した。

一方、上杉家では直江兼続が上杉景勝に徳川家康を追撃するべきだと言ったが、上杉景勝は
上杉家の後世まで信用を失い、恥を残す行為になるおそれがあるので攻撃しなかったという。
その後、直江軍と最上軍の壮絶な決戦・奥羽の関ヶ原合戦が始まった>畑谷城長谷堂城合戦

直江兼続の年表

月日年齢内容
永禄3年(1560)-越後国南魚郡上田庄(新潟県南魚沼市)の坂戸城下で生まれる。
幼少は樋口与六。
天正6年(1578)19歳上杉謙信が死去。御館の乱が始まる。
天正7(1579)20歳上杉景虎が自害。翌年に上杉景勝が越後中郡を平定。
この頃から直江兼続の存在が書状で見られ明らかになってくる。
天正9年(1581)22歳直江家を継ぎ、樋口兼続から直江兼続と名乗る。
天正10年(1582)23歳本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる。
天正11年(1583)24歳上杉家は豊臣秀吉と手を結び、直江兼続は山城守と名乗る。
天正14年(1586)27歳上杉景勝と共に上洛し、豊臣秀吉の臣従となる。
上杉家は豊臣政権の傘下へ。
天正15年(1587)28歳豪族・新発田重家を討伐。
天正18年(1590)31歳東北地方の検地や刀狩を行う。
文禄元年(1592)33歳朝鮮出兵のため備前名護屋に在陣。
慶長2年(1597)38歳越後の検地
慶長3年(1598)39歳上杉家が会津120万石へ移封。直江兼続は米沢を任せられ城主になる。
半年後に豊臣秀吉が死去。
慶長5年(1600)41歳直江兼続が2万余の兵を率いて、最上義光の領土へ進攻する。
慶長6年(1601)42歳上杉家は会津120万石から米沢30万石へ減封。
直江兼続が居た米沢は、上杉景勝に返還。
慶長8年(1603)44歳江戸幕府の成立
慶長9年(1604)45歳直江兼続とお船に子供が居なかったから、本多政重を養子に迎える。
7年後に本多家に戻される。
元和元年(1615)56歳大阪夏の陣
元和2年(1616)57歳徳川家康が死去。
元和5年(1619)60歳直江兼続が死去。4年後、上杉景勝が死去。


米沢に残る直江兼続の跡


直江兼続

谷地河原堤防直江石堤
こちらが直江石堤のとこにある400年前ほどに、直江兼続の命により築かれた谷地河原堤防。

現在も残る直江兼続が残した堤防
米沢市を流れる松川は、大雨が降る度に川が反乱し、洪水がおき米沢の城下町も水に浸かった。
そのため兼続は、下級武士の原方衆や人夫を集め石の堤防を造った。
元々兼続は、豊臣秀吉の命令で京都に運河を作ったり、自分の出身地の魚沼川の整備なども行ったこともあったので、その経験を米沢の町作りに活かした。

直江屋敷跡直江屋敷跡

直江兼続の屋敷跡
こちらは大河ドラマ天地人で兼続にスポットが当たったので、当時屋敷があった場所に看板を
立てた屋敷跡です。長谷堂城合戦後に米沢30万石に減封されると、米沢城は兼続から主君である
上杉景勝に返上し、現在の城南1丁目にあった屋敷で暮らしていたそうだ。
伝国の杜の裏側の道路側にあり、現在では民家が建ち看板のみがある風景となっている。

芳泉町ウコギ芳泉町武家屋敷ウコギの垣根と武家屋敷が見られる米沢市芳泉町の武家屋敷

400年前の面影が残る芳泉町
直江兼続はこの米沢の松川の川辺に沿って下級武士の原方衆を住まわせ、松川の反乱の警備に
あたらせた。まず兼続は中国からヒメウコギというウコギを取り寄せ、それを武家屋敷の庭に
植えさせたのだという。これも水害対策の一つであり、その他には敵が進入してきた時に
ウコギの垣根を越えようとすると、鋭いトゲがあるので敵の進入を阻止する役目も果たしている。

龍師火帝の碑の写真
水の神・火の神を祭った
直江兼続は、松川の源流に龍師火帝の碑を造った。龍師=水を治める神 火帝=火を治める神を指す。水と火の害を防ぐために神を祭ったのだ。
碑には、見えにくいが龍師火帝と掘られている。

その傍らには猿尾堰(さるおぜき)を造り、それを
掘立川に水を流し、敵の侵入妨害のための堀や
米沢の田畑を潤すための水として引いている。
                                  ▲龍師火帝の碑(りょうしかていのひ)

鉄砲鍛造遺跡
鉄砲を作成した工場の跡
白布温泉の方には、鉄砲鍛造遺跡の碑がある。これは直江兼続の時代になると、合戦では鉄砲での戦いが主流になっていたので
堺(大阪府)や近江(滋賀県)の鉄砲技術者を招いて工場を作り、鉄砲を製造していたのだ。

1・2千丁の鉄砲がここで作られたいたようだ。
上杉鉄砲隊の銃もこの地で製作した物。
    ▲白布温泉(しらぶ)、鉄砲鍛造遺跡の碑

稽照殿宮坂考古館
▲上杉神社・稽照殿(けいしょうでん)          ▲宮坂考古館(みやさかこうこかん)

直江兼続の愛の前立てや上杉家所用の鎧兜
上杉神社内にある稽照殿では、直江兼続の本物の鎧兜や上杉謙信の物など約千点を収蔵。
一般:400円 営業時間:午前9時~午後4時(*冬季は予約がないと入れません)

(財)宮坂考古館の方では、東北の関ヶ原合戦と呼ばれる長谷堂城で最上義光軍との戦いの時に
使用していた、梵字で書かれた「愛」の字の鎧兜があります。その他に上杉景勝、前田慶次
上杉謙信、鬼小島弥太郎などの所用した鎧兜が展示されている。火縄銃、屏風なもあり
実際の火縄銃を手に取って触ることも可能。一般:300円 営業時間:午前10時~午後5時

林泉寺1林泉寺2
春日山 林泉寺(りんせんじ)

直江兼続と妻・お船のお墓がある春日山 林泉寺
ここ林泉寺では上杉氏の奥方や、直江兼続夫妻のお墓がある。兼続の墓は、向かって
左側が兼続で、右側が妻のお船(せん)の方の墓です。その他には武田信玄の
子孫の六男・武田信清や上杉家の重臣の墓もあり、裏側には米沢三大名園の庭があります。

ここのお墓は少し変わっていて、家のような形のお墓で窓ぽい四角い穴が空いている。
これは万年堂と呼ばれ、米沢地方だけにしかないお墓である。これを編み出したのは直江兼続で
戦が起こった時のために鉄砲の弾よけにしたり、洪水が起こった時のための利用として発案した。

松岬神社羽黒神社
▲松岬神社                       ▲羽黒神社

松岬神社(まつがさき)は米沢城内にあり、上杉景勝・鷹山公、直江兼続や重臣を祀った神社。
羽黒神社の方は、平安中期に藤原公清の一族の佐藤右兵衛介が建てたようだが、火災により
焼失したため兼続が再建したと伝えられる。

法泉寺法泉寺庭園
恵日山法泉寺                      ▲法泉寺庭園

本を調達して学問所を米沢に建てる
その他には法泉寺(旧名:禅林寺)を建て、教育にも力を入れた。開山禅師『九山』を迎えて
学問所「禅林文庫」の設立。戦や朝鮮出兵の合間に入手した本が集め、現在でいう図書館として
利用していた場所が当時建てていたようだ。ここにも米沢三大名園の庭の一つがある。

西明寺米沢市遠山町にある西明寺(さいみょうじ)。直江兼続が眺めた米沢の風景

直江兼続の詩碑
直江兼続が詠んだ詩碑が残る西明寺
直江兼続は米沢の街を造る際に、米沢の高台にある西明寺から眺め、街ができあがる様子を見ていたと伝わる。

この場所には兼続が詠んだ詩碑が置かれている。『西明寺展望に題す』と彫られた碑があり、何やらその時に詠んだ詩が彫られてました。
                                   ▲兼続が詠んだ詩が彫られている



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記事のコメント

チョット違うよ
私も与板の住人です。ここに出ている与板城大手門は直江兼続公とは関係ないですよ。地元では兼続公の城を直江城という呼び方をするけど直江城の門ではありませんよ。兼続公の後の時代の城の門です。ちなみにその城の切手門は恩行寺というお寺にあります。与板には直江家の陰城,陽城ともうひとつの城と全部で3つ城があって上の写真は直江家の陰城,陽城とは全く関係のない城の門ですよ。
>愛の前立腺肥大さん
ご指摘と詳しい解説ありがとうございます。
やはりあれは井伊家の時代から、建てた門だったのか。
これではまったく直江兼続とは関係ないですな。
ん~写真はお船の清水にでも変えておきます。

追伸:失礼ですがコメントが増えすぎ且つ、記事内容が濃すぎて表示が激重いので
    いくつかコメント削除させていただきました。m( _ _ )m
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