
長谷堂合戦ゆかりの地を巡る
長谷堂城合戦についてはだいぶ触れたが
今回は記載していない部分を眺めてきた。
やはり地図で眺めると、上杉軍の本隊・
直江山城守兼続が、いかに長谷堂周辺を
包囲し、半月に渡りどう合戦を繰り広げたのか
想像しやすいものだ。
山形城までは約8km。
合戦は山形市の西部で、山辺町と上山市が
隣接する場所で行われた。地図の右側が北。
▲長谷堂城跡(はせどう)


柏倉八幡神社(かしわぐら)
寺・神社の解説
- 畑谷城を攻め落とした上杉軍は、すげさわの丘に布陣し富神山で山形城(霞ヶ城)を眺めている
ことからすると、早坂林道や狐越街道の道を使ってやって来たのだろう。
理由は富神山~県民の森の道の中腹辺りの道路から、ちょっと脇に入った地福寺という真言宗で
山形城主の武運長久の祈願所があるのだが、直江軍により焼かれているからだ。
さらに進軍した直江軍は、柏倉八幡神社・長泉寺(ちょうせんじ)・皆龍寺(かいりゅうじ)も
上杉軍に焼かれている。現在存在するのは再建した建物だ。
他には坂紀伊守の墓所・清源寺があるが、こちらは焼かれたかどうか分からない。


▲地福寺(じふくじ) ▲古舘城跡
城や住居跡の解説
- 大曽根小学校の近くには、最上義光が防備のため古舘城を築いたが、上の写真のように
現在では地蔵が置かれているだけで、周囲は民家で埋め尽くされ特に目ぼしい物は無かった。
最上家が改易の時に潰されたのだろうか・・・
悪戸では最上義光の妹・義姫(保春院)が住んでいた記録が有り、守護役として加藤掃部左衛門
清次(かもん ざえもん きよつぐ)が共に住居したが、こちらも古舘城跡のように地蔵が置かれ
近くには白山神社が鎮座し、あとは民家や田んぼで埋め尽くされ何も無かった。
現在も供養されている最上や上杉のお墓

▲
長谷堂城跡の近くにある方の主水塚(もんどづか)

お墓・供養碑の解説
- 墓や供養碑などは主水塚・加藤掃部左エ門・
湯目加賀守重と長谷堂周辺に有る。
山形では何の碑なのかよく分からない石碑や
地蔵がたくさん置いてあるので
昔はどこにあるのか探すのが難儀だったが
現在では天地人の登り旗が立っているので
見つけやすい状況になっている。
▲向田八郎左衛門の墓


▲加藤掃部左エ門の碑 ▲湯目加賀守重の碑
湯目の碑に関しては前明のガソリンスタンドの隣にあります。
話では主水塚は柏倉にもあり、畑谷城主・江口五兵衛兵光清の墓は出塩文殊堂付近にも
あるそうだ。江口光清の墓の方は周囲を観察してきたが、どこにあるのか分からなかった。
まだ有るとしたら、車では入り込めない草やぶの中にあるはずだ。
畑谷の援軍・向田八郎左衛門について
- 向田八郎左衛門の墓は、出塩文殊堂へ行く方面で上の方に橋がかかっている所があるが
その橋の上の道路から近い所に有り、車道側にあった。
向田八郎左衛門は、最上義光の命により畑谷城を守れと言われたが、すでに時遅く落城。
鬼越まで戻って来たが、山形城には霞がかかっており、それを煙が上がっているものと勘違いし
もはや、これまでか・・・と自刃した畑谷城の援軍です。
長岡楯跡


長岡楯跡(ながおかたて)

長岡楯跡について
直江兼続が関ヶ原合戦で東軍が勝利した
知らせを聞くと、9月30日に退却した。
その際に最上・伊達連合軍により追撃を受け、直江軍はその夜に長岡楯に宿陣した。
兼続の軍奉行にあたる溝口左馬介が追撃から
戻って来たものの重傷で、ここで亡くなった。
その後、
前田慶次や
上杉鉄砲隊による
殿軍により上杉軍は全軍撤退を果たす。

蔵王連峰の山々が見え眺めが良い。方角は山形城方面。


敵方とは言え、手厚く供養されていた。無念で亡くなった上杉軍も成仏したんじゃないかな。
眺め良く供養碑が多い公園と畑
ここからの眺めは非常に良く、蔵王の山々がよく見渡せる。長岡楯跡は現在は、ぶどう畑と
寂れた公園・お墓の場所になっており、小さい石がたくさん積まれ石垣のようになっていたのが
印象的だった。地蔵や供養碑もやたらと多く、この公園で遊ぶ子供はいるのだろうか・・・
ぶどう畑の中を観察すると、畑の中にまでお墓があり、相当死者が出たものだと推測できる。
左馬介の首を洗った井戸
長岡楯跡の入口の側には、左馬介の首を洗った首洗い井戸がある。
側には観音様が置かれ、墓碑ぽいのがあった。井戸は子供がイタズラしないためだと思われるが
木のフタがされ、その上にガスボンベを重しにして、フタを開けれないように置かれていた。
おかぐら山と早坂林道


▲おかぐら山 ▲早坂林道
最上と上杉がもっとも激しく争った場所
- 早坂林道を奥へ進むと、おかぐら山がある。昔は頂上の方には最上家の館城があり
見張りや畑谷城との連絡所として重要な役割を果たしていた館城だと言われている。
丁度、地福寺の裏側に見える遠くの山がおかぐら山で、山頂は二段になっており標高は366m。
さらに早坂林道を奥へ進むと、女子林古戦場なる所がある。
そこは上杉軍が撤退した時に、最上・伊達連合軍が上杉に追いつき激しい追撃戦により
両軍共にもっとも多くの犠牲者を出した所と言われている場所です。
上杉軍は鉄砲隊を山づたいに構え潜み、一斉射撃をしかけ最上義光の兜に傷を付け
盾となった最上の家臣や軍師らが亡くなった。
早坂林道は普通車1台程度の道幅で、車で行くには激しくオススメできない場所だった・・・。
ヘタするとUターンできる場所すら無く、草もボウボウに生え行くならバイクがベストだと思った。
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