山形旅行や観光名所と地図や福島県 神指城 直江兼続屋敷跡 について

福島県にある幻の城・神指城
会津若松市の神指町には上杉家の
上杉景勝が会津120万石の頃に築いた、神指城跡の
土塁跡が現在もわずかながら残っている。
周囲は上の写真のように田や畑が広がり
山形の庄内平野や、秋田県に似た風景が
広がる地域だ。
会津若松城(鶴ヶ城)から近い位置に有り
福島県を観光したついでに眺めてきた。
▲画像クリックで拡大可
上杉家の城・神指城の歴史
- まだ豊臣秀吉が生前の頃、豊臣家に反抗する伊達家の要として蒲生氏郷を配置した。
福島で聞いた話だと蒲生氏郷は才が優れるので、秀吉は蒲生を側に置いておきたくないが故に
上記の口実で配置したという説もあるそうだ。
それで蒲生秀行が宇都宮に移封されると、上杉景勝が会津120万石で入封した。
豊臣秀吉が亡くなると、5大老の一人・徳川家康は秀吉の遺命を破り、伊達家との婚約を
勝手に行い、他の大老や奉行に反感を買うことを行った。
伊達家と隣接する上杉家では、伊達に備え築城したと考えられる。
上杉景勝は直江兼続や家臣らに命じ、大人数で道や橋の整備・城の築城をした。

▲会津若松城(鶴ヶ城)
土豪と土塁が取り囲み、鶴ヶ城を凌ぐ大きさの城
この神指城は慶長5年(1600)3月から工事が開始された。
会津若松城(鶴ヶ城)の城下町の拡張は難しく、神指町は盆地の中でも平坦な土地であったため
築城に適していた故に、この地に神指城を築いたと考えられています。
面積は本丸56.000㎡、二の丸を含めると500.000㎡で会津若松城の約2倍にもなる
大規模なお城が出来上がる予定だった。
徳川家康の耳に上杉家が戦を起そうとしているという情報が入ると、家康は景勝に上洛するよう
手紙で送ったが、直江兼続はそれを反発した『直江状』を送り家康と対立する姿勢を見せた。
家康は怒り会津討伐を決め小山まで来たが、石田三成の挙兵を聞くと江戸へ戻った。
その後、関ヶ原で東軍が勝利し、上杉家は米沢30万石に減石されたので
神指城は築城できずに廃城になった幻のお城である。
高瀬の大木(ケヤキ)と石垣


高瀬の大木(ケヤキ)
土塁の上には、天然記念物に指定されている
高瀬の大木(ケヤキ)がある。
神指城の築城前から大木であったとされ
根元の周囲12.55m、樹高は24.64mある。
山形で言えば
東根の大ケヤキなみのスケールだ。
根元には小さい石の神社ぽいやつが置かれ
周囲はセミの声で溢れていた。
本丸から運んだ石垣
- 高瀬の大木の側には巨石が3つ転がっており、本丸・現在の東山町から運んだと言われる
石垣の基礎石だそうな。昭和58年にここに移し保存した。
本丸に石垣を築こうとしたのだろうな~
土塁の隣には吉高山 福昌寺があり、神指城の本丸は田んぼになり、何も無かった。
直江兼続屋敷跡


直江兼続の屋敷があった場所
慶長3年(1598)に、上杉家は越後から
会津120万石で入城すると、徳川家康に備え
神指城を築城したり、道の整備を行ってたが
直江兼続は鶴ヶ城の近くに住んでいた。
現在は屋敷は無く、赤穂の獅子の生みの親
山鹿素行の誕生の地として石碑と看板が
おいてあるだけの所だ。上杉家は米沢30万石
に減封されると会津を後にした。
福島県の神指城の場所・地図⇒
神指城 福島県 - Google マップ福島県の直江兼続屋敷跡の場所・地図⇒
福島県 直江兼続屋敷跡 - Google マップ
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