歴史講座『東北の関ヶ原』 直江兼続と最上義光の戦い

▲山形郷土史研究家で、現在は上山市図書館長をしている片桐繁雄先生

東北の関ヶ原・長谷堂城合戦最前戦
前回、上山市で
慶長出羽合戦と上山の戦いの歴史講座を片桐先生に学んだが
また片桐先生と御縁があったので
今回は以前より詳しく学んできました。
さらにもう絶版となっている月刊歴史読本
2007年8月号だと思われるが、昔書いたという資料を貰い、片桐先生に引用の許可まで戴いたので、その本の内容も含め公開致します。
不明だった謎に迫る
なんでも片桐先生は、最上義光の研究者として何十年も研究されてきた方なので
何かの文化賞を受賞したとか司会の方が言ってた。きっと研究家としては名誉な賞なのだろう。
それで今回は当ブログの
長谷堂城合戦や
慶長出羽合戦と上山の戦いで、だいぶ東北の関ヶ原
についての大筋は明らかにしたので、同じことを何度も書くのはつまらなき事。
それ以外のことや、片桐先生の本を読んで疑問に感じた点を明らかにし質問形式で記載いたそう。
というか講座は第1回と第2回に分けられ、長い話なので全部記載するのは無理だ。
片桐先生はいつから直江兼続が奸雄説になったの?
前に慶長出羽合戦と上山の戦いにて、直江兼続の奸雄説について話したが
まず先に言っておくと、片桐先生を激しく直江アンチだと誤解してる方々が多い。
歴史講座においてもあんな感じなので、上杉を信仰している側からすれば耳の痛い話だろう。
しかし資料に基づいた上での内容で、まずその辺の内容を先に記載しておく必要性があるだろう。

片桐先生は2007年の頃までは、直江兼続は和歌を詠じ、連歌も数巻に名を残し才覚優れた人物だと称していた。藤原惺窩が「直江は主家を滅ぼす男」と常山紀談に冷めた目で評価されてあるが
それでも片桐先生は兼続は武人として政治家として当時最高の知識人の一人だったと本に記載。
直江は戦国武将では、5本の指に入るほどの
大学者だと話してたが、ここ数年で180度変わり
兼続を奸雄として見るようになったそうだ。
理由は兼続が行ってきた歴史を辿り、結果的にやってきたことを見ると一揆を起した農民を火あぶり
にし千人を斬った。直江状では上杉家を争いに巻き込んでいるし
名のある直江家に嫁ぎ、力を付けていった流れを研究し続け、結果藤原惺窩の説になったそうだ。
政治では自分に反対する者や、徳川家との争いになると上杉家から逃げ出す福島県の大森城主
の栗田を、上杉家の情報が漏れないためにと、追撃し捕まえ130名を殺した。
直江兼続は残酷だったと話すのは、150年前に米沢で書かれた鶴城業談(かくじょうそうだん)
という古文に記載されているそうです。つまり昔の学者は兼続を評価しない傾向にあった訳だ。
藤原惺窩の流れの林羅山(はやし らざん)とは?
- もっとも私は人の話をそのまま鵜呑みする方でも無いので、少し林羅山について調べてみました。
片桐繁雄先生の話だと、江戸時代の頃では大学者でトップクラスなのだとか。
それで驚いたことに、直江兼続と実際会っているはずだろうと言うのだ。江戸初期ということか!?
調べたらすぐに答えは出た。徳川幕府の時代になり、社会が安定すると仏教や学問が盛んになり
儒学の中でも、上下の秩序や礼節を重んじた朱子学が、封建的な身分制度を維持するのに
適した思想であったので、徳川家康は朱子学者の林羅山を重く用いた。
その後、林家の子孫は大学頭(だいがくのかみ)として幕府の文教をつかさどったようだ。
直江兼続は徳川家康に逆らった訳だから、当然奸雄と書かれても不思議なことでは無いだろう。
林羅山に関しては肖像画もあり、年齢は70歳ぐらいの爺さんで学者と言うよりお坊さんぽかった。
慶長出羽合戦での最上や上杉の兵数
時 | 旧暦:慶長5年9月~10月(最上の城に篭城した庄内軍は6年4月に終戦) |
場所 | 最上領土の五百川~畑谷~長谷堂城周辺、庄内軍の方は寒河江~谷地 |
兵力 | 上杉4万人vs最上1万人+伊達2千人 |

上杉と最上の兵数について
あらゆる資料を見てきたが、長谷堂城の最上の
兵数を見ても、人数は千人、三千人、いや五千人と数に随分バラ付きがあり、おかしな話だ。
それで兵数について質問してきた。
片桐先生が言うには、この人数については自信が無いのだそうです。ただハッキリと分かるのは左のマップの庄内の尾浦城から白岩城へ出陣しているが、この人数は3千人と書状で記載され
他の兵数については明確では無いそうだ。
あとは仲間への手紙による討ち取り話や
石高による計算で兵数を算出している。
ただ上杉の飛び地になっている、尾浦城から3千の兵を出せるのなら、本体で1万以上の兵数を
出せそうか・・・。城攻めに必要な人数は
篭城兵の3倍の兵が必要と中国の兵法にある。
▲画像クリックで拡大表示可能
石高による兵の算出について
この石高による兵の算出については、最上義光分限帳に記載されており、個人的に調べてみた。
最上の谷柏氏(やがしわ)を眺めると、石高4千石の領土を預かっていた武将だ。
最上家臣の中では上位から22位に位置し、石高4千だと兵を合計75人出すように定められている。
谷柏
一、高四千石 八騎 鉄砲 十五挺
弓四張 槍 四十八本
谷柏相模
騎馬8人、鉄砲15人、弓4人、槍48人=合計75人
さらに57万石の領土から、庄内領土を差し引いて石高を見ると合計で約26万9千7百石と算出。
57万石の当時では水路も引かれ実りが良かった話だから、大大名になる前だと24万石あたりか。
4千石で75人の兵を出せとういことだから、4000:75=240000:X X=4500
なので24万石で4千5百人あたりとなる。やはり
最上義光歴史館で言うように、どう多く見積もっても
1万人がやっとであるという説が通る内容だ。北にある最上氏預かり領を含めても5千人だろうな。
やはり最上義光歴史館で公表されている数字が妥当か~
直江が
畑谷城で撫で斬りを命じると、上泉の書状では畑谷城では500人+他にも
討取ったと手紙で書いてある。つまり山辺の規模で500名ぐらいの兵でやっとなんだと思う。
それだとやはり
長谷堂城は2倍の1000人あたりが、妥当な数字かと思われる。
長谷堂城にだけ5千の兵を出すとは思えん。伊達の軍と合わせ追撃戦で5千なら有りえそうか!?
上山城でも最上の兵が500人という数字で、兵が足りず地元の農民まで戦っている。
最上義光は、上山へは援軍は送っていないと書いてあるから、兵に余裕が無いので
伊達に援軍を頼んだという流れだろう。
上杉軍が最上領土を攻めた理由


果たして義のための戦だったのか!?
大体どの資料を眺めても、徳川の包囲網で上杉家は総攻撃を仕掛けられそうになり
その後、石田三成の挙兵の知らせを聞くと、結局徳川家康は戦を行わずトンボ帰りする分けだが
その隙を見逃さんとばかりに直江兼続は家康の背後を突こうと上杉景勝に進言したそうだが
上杉景勝は、謙信は逃げる敵を背後からは突かなかったという理由で戦を避けたと伝わる。

しかしその後、徳川政権寄りの最上義光が
周囲の大名に共に攻めるよう話しを持ちかけた
手紙を発見したとかで、上杉家は最上領土を
攻めたという通説が多い。
上杉家は会津120万石とは言え庄内領土が
飛び地なので
朝日軍道という長井市から鶴岡市を結ぶ約60kmの山道を通り、物資やら手紙を届けなければならなかった。
▲
上杉景勝朝日軍道を利用して荷物運搬には疑問を感じる・・・
しかしあの細い道を荷車が通れるほど広くは無く、あんな道米1表程度しか運べ無そうな道を
運んだ分け無いと片桐先生は言う。確かに私も実際に登ったが、無理があるように思えました。
それで上杉家は当然不便なので、西川町~鶴岡市に延びる道・六十里越街道が欲しかったから
攻めたのだと言ってました。最上領土を取れば物資の運びがスムーズに行え
庄内から置賜まで道が繋がるという内容だ。上杉家が戦後の利を考えれば有りえそうな話か・・・
上杉軍の食事・便所・宿について

便所について
歴史講座を受けている方の一人が、上杉軍は便所とかどうしたの?と質問していた。
周囲では笑っていたが、よくよく考えると興味深い内容だ。
して、それについては直江兼続は戦を始める前に、兵へお触書をいくつか出しているそうだ。
兼続は便所に関しては決められた場所で用をたし、清潔に使えと命じている。

戦になると、何ヶ月も重たい甲冑や武器を装備し
真夏の中で動くので油ぎっしゅの体になる。
当然不衛生になる。戦場では伝染病が広がり
兵力が下がるといったことも実際あったようだ。
徳川家康に至っては、伝染病予防にと兵に
石鹸を渡し体を清潔にするよう命じている。
あちこちで2万の兵が野糞をするものなら
伝染病も広がりそうな話だな(笑)
なので、所定のトイレの位置をあらかじめ
取り決めていたのでしょう。
やがて土に吸収され肥料になり植物が健やかに
育ちそう?ですね。ある意味エコ活動だ。
たぶん穴を掘っただけのWCではないかと
想像できる。戦が終われば埋めれば良いだけだし。
食事と寝床について
食事についても兼続の取り決めで、自分で持ってこいと書かれているそうだ。
上杉軍が最上の餅を奪って食べたという逸話もありますが、自分で持ってきた食料が
尽きれば有りえそうな話だ。半月もいれば当然無くなるだろう。冷蔵庫のような保存機も無いし。
それで上杉家の宿泊する場所なのだが、これについては謎なのだそうです。
たぶん焚き火を囲んで野宿だと想像できるが、交代制で自分の領土へ帰還していたのか
そのまま半月まで、長谷堂周辺にいたのかは分からないそうだ。それについての記載も無い。
上杉軍は風呂とか一体どうしたのだろうな・・・?
最上のお城(天守閣や石垣)について


▲上山城(かみのやま) ▲山形城の東大手門
天守閣は無く石垣すらあったか微妙
最上家が改易になり全部のお城が壊され、現在では堀跡しか残っていないのが現状だ。
山形城(霞城公園)では、
東大手門を復元されており本丸御館は現在も復元中で
完成はまだまだであろう。して、最上義光曰く、山形城は天守閣は作らなかったのだ。
理由は作らせると民のくたびれになるし、民を自分の道具のようにかわいがってはならない。
と家臣達に悟し作らせなかった。
それで片桐先生が言うには、最上のお城は天守閣も無いし石垣すら無かっただろうと言ってた。
上山市には
上山城があるではないか!と思われるが、あれはお城の形に似せて造った
資料館なので、ああいった天守閣は無かったものだと推測できる。
なので最上のお城は、どれも平状の館が建っていたのだろう。
山形ではなぜ最上義光が英雄視されないのか?


57万石の大大名だが何故?
天下泰平の世を築いた徳川家康からの信頼も厚く、57万石の大大名にまで成長した
最上義光であるが、山形では何故か英雄視されるまでに至らない。
もっとも改易され当時の資料は少なく、謀略や息子・家臣殺しという不穏な空気が漂うため
英雄視されないのではなかろうか?と個人的に考えていたが片桐先生に聞いてきた。
すると昔は英雄視されていたのだそうだ。大正時代の頃まであったとか言う
最上義光祭という、今で言う武者行列のような祭りが存在し最上義光の威光を称えていた。
現在では山形花笠祭りにとって変わってしまったが、何故無くなったのか?というと
血染めの桜の逸話が色濃く浸透してたようだ
昔の山形城(霞城公園)には、血染めの桜と呼ばれる木があった。
谷地の殿様・白鳥氏を最上義光がぶった斬り、流れた血がその桜の木に浴びたという逸話だ。
血染めの桜は昭和時代に、天災により折れて現在は無い。
それで昔の山形民はその話の一部だけを浮き彫りするかのように「何で騙して人斬ったような
奴のためなんかに祭りをしなきゃならんの?」とあるグループで不満を持つ所があり
その最上義光祭は止めたそうだ。霞城公園に銅像を建てるにしても当時はかなり揉めたそうだ。
大河ドラマ天地人が決定した頃に、新聞で最上義光祭の復活する構想があるという記事を
目にしたが、実現するかどうかは今のところ不明だそうです。
その他・個人的な感想

個人宅やお寺に眠る貴重な資料
と、まあ色々と内容をまとめて記載しましたが、他にも気になる話や郷土の話などもあった。
山形市の個人宅には
駒姫の着物の切れ端の部分や、最上義光の妹(伊達政宗の母)である
義姫の笛や懐刀などがあるそうです。
最上義光に関する資料や文化財級の物が、個人の蔵や古い寺などに眠っていたりするのかな~
歴史とは学べば学ぶほど、一言では語れぬものでございます。
これは一部の話でしかないが、話が長いし私も書くのが大変なので今回はこれで以上。
最後に資料くれた方と講座を設けてくださった方々、片桐繁雄先生に感謝致します。
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