大江・伊達・蒲生・上杉の歴史が残る荒砥城跡

▲白鷹町の
荒砥城跡(あらと)にある八乙女八幡神社と大鳥居、桜の木の写真。
- ・場所:山形県白鷹町(しらたか)。荒砥駅から徒歩で約5分の距離。
- ・駐車場:公民館側の広場(無料)
- ・白鷹町の名物・特産品:紅花、鮎、蕎麦、赤すももワイン、鮎の甘露煮・昆布巻・チップ、和紙

今では桜の名所となっている荒砥城
白鷹町には杉に覆われた城跡があります。
今では城なんか建っていないが
置賜さくら回廊の一つである八乙女桜がある。
荒砥城は別名・石灘城(いしなだ)や
八乙女城(やおとめ)とも呼ばれています。
最近では
直江兼続を巡った天地人ツアーによる観光地になっている。
荒砥城の歴史
- 荒砥城の歴史は古く永長年間(1096~1097)頃に、藤原清衝の臣・荒川次郎泰清が築城し
八幡神社を建立したと伝わる。元中年間(1384~92)頃には馬場将監が堀をめぐらし整備した。
その後、大江・伊達・蒲生による支配が続いた。
慶長3年(1598)になると上杉家が支配し、米沢城に入城していた直江山城守兼続は
荒砥城は最上義光の領土との国境地なので、上杉景勝の家臣・泉沢久秀を荒砥城に配置。
少し離れた場所にある鮎貝城(あゆかい)には中条三盛を配置し、国境の守りを固めた。


左:夏の様子。 右:春の桜の季節の時の様子。
巨大な老木・八乙女種まき桜
- 荒砥城の階段横にはアジサイの花が咲き、上まで登ると前述した置賜さくら回廊の一つである
八乙女種まき桜があります。樹齢は約500年と推定され、エドヒガンザクラです。
近くには樹齢約300年の安田杉(やすだ)という巨大な杉もあります。
八乙女八幡神社


八乙女八幡神社について
- 八乙女桜を越えると八乙女八幡神社がある。
八乙女八幡神社の創立の頃には
八幡太郎義家がこの丘で弓矢を立て奉り
8人の乙女に舞楽を奉納させたと伝わる。
上の写真の銅像がその様子を模したやつだと
思われる。神社は源義家が後三年の役の際
京都の石清水八幡宮をこの地に勧請したそうだ。
本殿を観察
八乙女八幡神社の本殿の方を眺めると、なかなか面白いものだ。
両サイドには何か中国系?ぽい繊細な彫り物彫られ、屋根にはシャチホコと鬼瓦が睨むように
見下ろしている。横から見ると、鬼瓦の頭の上に鯱という組み合わせがチョン髷ぽく見えるか(笑)
荒砥城の空堀と蛇井戸の伝説
- 荒砥城を取り囲むように造られた空堀跡が現在でも残っており、これがまた摩訶不思議な話だ。
その昔、城の東南側には水堀があった。こちらの空堀にはわざとイバラや藤などのツル草により
城への侵入に戸惑っている所、城内にある蛇井戸(じゃいど)の竜神に祈ると井戸から水が溢れ
空堀が水で満たされるという伝説がある。人馬の侵入をも防ぎ、難攻不落の城なのだとか。
それでその蛇井戸は現在もあり、参道の階段の途中から横へ入っていく道があり
よく眺めるとその例の蛇井戸があった!
中を覗き込んで観察してみたら、現在は中の井戸は埋められ井戸として機能していなかった。


蛇井戸は、明治初期まで井戸型が残っておったそうな。

八乙女八幡神社の周囲には、5社ぐらいと石碑がおいてあった。
御楯稲荷神社と直江兼続

▲御楯稲荷神社(みたていなり)

上杉軍の道案内をしてくれた白狐の伝説
八乙女八幡神社の隣の方の一段上がった
広場の方には、御楯稲荷神社があります。
この稲荷神社は
長谷堂城合戦の時に
当神社で直江兼続が戦勝祈願を行い
萩野・中山を進軍した。しかし山道なためか
道に迷っていると、この神社の白狐が現れ
道案内をしてくれたと伝わる。
狐越街道と直江兼続による社殿の修理
- その白狐が道案内した道は狐越街道と呼ばれ、現在も畑谷城から富神山付近にまで通づる
山道がある。その狐越街道の名前の由来については、そこから来ていると云われている。
慶長年中(1596)頃には、直江兼続が八乙女城(荒砥城)の補修の際に
南郭内の鎮守である社殿の御楯稲荷神社を崇敬せりと記載されているそうだ。
道案内人=白狐と称したのかな?
前に
片桐先生の教えによれば、江口五兵衛光清は上杉家に抵抗をせずに畑谷城を開け渡すから
「どうぞ畑谷城から長谷堂城へお通りくださいませ」と、わざと上杉軍を畑谷城におびき寄せた説
もあると前に話しを聞いたことがある。
つまり私の勘からすると、白狐とは最上から上杉に寝返った案内人か、もしくは稲荷神社を
祀る役目にあった地元の神主などが道案内したのでは?と考えるのが普通ではないだろうか・・・
さすがに何十キロもある道のりを、ひょっこり現れた言葉も話せぬ白狐が道案内するだろうか?
また戦だと言うのに上杉軍は白狐について行くだろうか?何とも狐につままれたような話しだ。


御楯稲荷神社の裏の広場は、桜の木がギッシリと植えられている。
仏像が鎮座する杜の丘と荒砥城の武士・船山勘解由


最上義光を討つ為、直江兼続と共に長谷堂で戦った武士
荒砥城の表参道裏側の、荒砥地区の公民館が建っていた
場所は御役屋跡で南東隅には、堀の一部が残っている。
そこには驚くばかりの巨大な仏像と観音像・梵鐘・六地蔵
があり、周囲は花が植えられ、お寺や神社のように見えるが
ちょっと違う一風変わった場所がある。
ここは驚くべきことに、荒砥城の武士だった船山勘解由の
一族にあたる船山家が個人で建立したそうです。
それで船山家では、亡くなった母の供養と先祖代々の霊を
弔うために、あのような仏像を置き供養している。
周囲には四季の花々がたくさん植えられ、一般の神社や
お寺よりスケールのでかい所でした。ここは極楽浄土か!?
何たる規模のでかい仏像の数々
これだけの仏像があるとは船山家は相当財力の有り、さぞかし立派な武士の家系なのだろう。
私が荒砥城の展望台から見下ろしていると、2名ほど訪れ梵鐘を鳴らしており
真昼間から面白がって鐘鳴らして、近所迷惑になりそうだと思わんのだろうか・・・と考える。
杜の丘へ入るときにすれ違いに挨拶を交わしたが、今想えば船山家の方々だったのかも。
白鷹町役場の方から戴いた資料によれば、平成7年8月2日に建立されたもので
亡くなった船山家の母は、この
上杉景勝の地をこよなく愛したのだと船山家の手紙に
記載されている。仏像は道祖神、地蔵車、六地蔵、虚空牛、祖先供養塔、八体仏、慈母観音、
龍神様、梵鐘、長寿観音、寂光堂などがある。母への愛が相当強かったのでしょうな。
荒砥城への行き方は、荒砥駅から徒歩10分ぐらいの距離にあります。
車の駐車場は参道の階段の細い通路に止める方もいるが、さすがにそこに止めるのは
問題があるような気がした。
とは言え、桜の時期以外だと臨時駐車場がある訳でもなく、しばらく考えたが
白鷹町役場側から荒砥城へ接近すると、老人ホームや公民館のある広い場所があるので
そこに止めれば良いと思った。道が細く少し面倒だが、参道の階段側に駐車すると最悪車が
出せなくなる可能性が高い。尚、参道の階段への入口の道路側には八乙女の像が置いてある。
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