
旅人の天晴れ『直江兼続の功績』の話


期待はずれの天地人にがっかり?
NHK
大河ドラマ天地人を眺めると
どうも作りがアレな内容ばかりというか・・・
いつの間にか気付くとチワワみたいに目が
ウルウルしてたりと、ひ弱そうな一面が目立ち
「あんなのぜんぜん兼続じゃない!」
と天地人の観光者は店の人に語るそうだ。
視聴者の目線とは厳しい物でござるな~
もう少し分かりやすく直江兼続を知りたいッス!
今では視聴率を維持した作りなのか、バラエティー色が混ざった大河ドラマにシフトした感じですね。
それで
結局、直江兼続は何した人なの?と疑問に感じる方々は多いはず・・・
だからこそネットで調べたり、観光地に実際に訪れ兼続を知ろうとする流れなのでしょうな。
せば、微妙な『戦国なるほど豆知識』を交えながら、直江兼続は何したのか個人的な主観も
入っておりますが、基本は資料に基づいた内容にてまとめてみました。
 大河ドラマ天地人の直江兼続の役者・妻夫木聡さんは、殿(景勝)の前で、あぐらを組み座る 場合は、殿に足の裏が見えないように足を組み座るんだって。足の裏が見えると汚いから。 片方の膝を立てて座る姿勢においても、殿に膝を向けるのは失礼だから横にそらすんだって。 |
主君・上杉景勝を支え、内政・外交・軍政を指揮した直江兼続の手腕
- 何となく分かる上杉の重臣・直江兼続のまとめ -

- 1.仁愛が強く、頼れる旦那だった。
- 2.いつの間にか上杉の内政を掌握した。
- 3.米沢の城下を整備し礎を築いた。
- 4.神仏に厚く保護した。
- 5.漢詩に優れ学問所を建てた。
- 6.戦による常の備えを整えた

1.直江兼続の人物像
- まず体格では180cm近くあったらしく、ガッチリしていたようだ。
直江兼続は家臣からは『旦那』(だんな)と呼ばれており
身分の上下による妙なプライド高き性格とは違い
わりと相談しやすそうな人柄だったのではなかろうか?
上杉家が会津120万石から、米沢30万石に減石された
時においても、4~6千人ほど上杉家に居た家臣達を
先行き不安な上杉家であったが、リストラにせず受け入れた。
晩年の兼続は働きぶりに上杉景勝は6万石を与えたが
兼続は5万石を家臣に、5千石を小身を分け与え
自分は残り5千石で生活したとそうだ。
それ故、仁愛や愛民の精神が強く『義と愛の武将・直江兼続』
と大河ドラマ天地人ではキャッチフレーズにしたのであろう。
米沢市で愛の前立ての由来に関しても、そういった経緯が
あるので、仁愛・愛民の精神が根拠だと考えておるのじゃろう。
 戦国武将で大そうモテた方とは、織田に攻められ自刃した浅井長政なんだって。 身長は高く少し小太りして、口には不精ヒゲを生やしているのが昔の人のイケメン基準。 一方モテない男は、豊臣秀吉。背が小さく顔はサルのような顔をしていたんだって。 やっぱ結婚するなら人間だよね。猿なんかと結婚したくない!でも金持ちなお猿さんなら考える!?
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2.近習から家老へ昇進
- 幼少の頃の兼続の資料はほとんど残っておらず、上杉景勝の近習となり一体どのようにして
内政を掌握していったのかは不明である。織田信長が本能寺の変で、家臣・明智光秀に討たれた
天正10年頃から、情報伝達や派遣、交渉窓口の手紙に兼続の名前が表舞台であらわになってくる。
ただの近習の身分にすぎない樋口兼続が、いつの間にか上杉家の中枢に潜り込み
指揮する立場になった点を考えると、情報や交渉能力に長けた才があったのではなかろうか。
上杉家は何度か上洛を果たし、関白・豊臣秀吉は兼続のことを
「天下の政治を安心して預けられるのは、兼続など数人にすぎない」と評価している。
景勝のバックアップもあり、上杉の中枢へ入り込めたのだろうとも考えられる話しだが
やはり何がしらの才に長けていたのには間違いないだろう。
3.米沢の城下町の整備に励む
- 慶長13年(1608)の時代になると、東北の関ヶ原とも呼ばれる最上義光との戦も終え
上杉家は山形県の置賜地方にある米沢城で、30万石の少ない石高で生活することになる。
兼続は総責任者として米沢の礎を築き、利便性に優れた上杉の城下町へと作り変えていった。
米沢では最上川の源流にあたる松川の洪水による被害においては
自ら近くにある赤崩山に登り、川の反乱の様子を観察し、治水工事を行い直江石堤を築いた。
河原の近くには下級武士・原方衆を配置し、被害が発生したら直ちに現場で処置できるようにした。
上杉家の財政は厳しく、苦しい層にあたる下級武士達には『四季農戒書』という
自作自農を教えた本を造り、貧しい武士が何とか生活して行けるよう教えを説いた。
4.兼続の神仏への信仰心
- 上杉謙信の代では神仏を拝し戦勝祈願を行ってから、戦へ出かけるようにしており
謙信の云い伝えから、上杉家では神仏を重んじる傾向にあった。
兼続もまた神仏を重んじ、山形や新潟の神社や寺の改修を行ったり、仏像・刀・杉
擬宝珠を奉納している。合戦前では戦勝祈願を行っていた。
米沢30万石に減石され苦しい時代においても、神社・寺の改修作業を行った記録が残っている。
畑谷城での合戦においては敵国の仏を燃やさず回収した。さぞかし信仰心は厚かったのであろう。
 NHK大河ドラマ天地人は、新潟や米沢の団体が10年前から直江の資料や上杉家の内容といった 有効な情報を提示し続けやっと大河ドラマが決定した、まさに根気の結晶なんだ。 長期放送のドラマを作る課程に至るまで、ずいぶん時間かかるのじゃな~ |
5.本を集め学問を大事にした
兼続は漢詩や和歌などいくつか残しており、
亀岡文殊堂では連歌を開いている。
詩を好み作詩する傾向にあったのか? それゆえ
前田慶次郎とは仲が良かったようだ。
豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した際にも、兼続は戦の合間に京都であらゆる本を
ちゃっかり調達していた。貴重な歴史書や書物を収集し、米沢市にある法泉寺で九山和尚を招き
禅林文庫なる学問所を設立するほどで、人材育成にも力を注いだようだ。
 兼続が集めた古典や医学書・漢籍などの本は、今では貴重価値が高く国宝や文化財へ 登録されている。兼続はそういった本は、人の交流や僧を通じて入手していた。 本を読むのが、めっちゃ好きだったんだろうね~。ガリ勉兼続!? |
6.もしもの戦に供えた軍策
- 武家屋敷にはウコギの生垣を植えさせ、敵が侵入してきた時に鋭いトゲでもって入り込めなくした。
春日山・林泉寺においては、万年堂というブロック型の墓を発案し、戦時には屋根を外し積み重ね
鉄砲の玉よけの盾にしたり、洪水時には川や水の流れを堰き止める道具を発案した。
山形城の最上義光に戦で負けた後の兼続は、米沢の高湯・白布温泉地帯で鉄砲工場を作り
1・2千丁の鉄砲を密かに作っていた。長谷堂城で半月に及ぶ戦で、鉄砲による利便性に気付き
大量に製作したのではなかろうか?鉄砲による殿軍(しんがり)は見事だと最上義光も話している。
南陽市の道路では敵が真っ直ぐ見通せない構造にし、敵が侵入しづらい町づくりを行った。
 ウコギを食べる習慣がついたのは、貧乏だった米沢藩の民のお腹を少しでも膨らませようと 上杉鷹山公が推奨し食べるようになったんだって。 鉄砲については兼続が密かに京都で盗ませ作らせたんだって。結構ワルよのぅ~ |
個人的な考察とあとがき
と、まぁ兼続の功績を大きく分けると上のような感じです。
主君や国に対する忠義はあった人物だと思うが、幼少の頃の兼続は謙信との繋がりが見れず
一体どれほどの『義』を継承していったのかは、あくまで想像の話しでしか語れない。
軍政を眺めると、敵国の3倍以上の兵にも関わらず長谷堂城を包囲し落とせなかった点を想うと
合戦においての才があったかどうかは微妙であり、天下取りが狙える器があったという
噂についても、どこか疑問に感じる。
仮に直江状が本当にあったとするならば、国を戦に巻き込み好戦的な人物像だったとも考えれ
謙信ゆずりの義に対しどこか矛盾を感じるところだ。やはり解せぬ点はいくつかあるものだ。
総合的に眺めると
直江兼続は言葉や内政に優れた知将だと思える。No.2の武将とも呼ばれるが
実際には上杉家の実権のほとんどを握っていた人物だったのだろう。
晩年の直江兼続は旦那と呼ばれながらも上杉家の行く末を指揮し、苦しい財政の中ひたすら
上杉家を支え、激動の世の移り変わりの中で、何を想いこの世を去ったのでしょうな。
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