長井市から鶴岡市の道を直江兼続が開削した軍道

▲長井市にある、
朝日軍道の中腹から眺めた長井市~南陽市の風景
- ・場所:山形県長井市草岡の古代の丘付近の登山口
- ・駐車場:空いているスペースに適当に駐車
- ・長井市の名物・特産品:サクラ、ツツジ、アヤメ、地酒、漬物、山菜、手打ちそば

長井市の草岡にある軍道
長井市にある朝日軍道を観光してきた。
草岡と言えば、やはり
置賜さくら回廊の
草岡大明神桜を連想してしまうものだ。
近くでは縄文時代の土器などが発掘され
資料館や住居・土偶などが展示されている。
して、今回は置賜と庄内を結ぶ朝日軍道を
観察しに、ちょいと登山してきました。

自然多く、眺め良き所か

朝日軍道とは?
- 朝日軍道とは、置賜の長井市草岡から庄内の
鶴岡市朝日村を結ぶ軍道で、葉山・大朝日岳・
以東岳を通る約60kmの山道です。
上杉当主・上杉景勝が慶長3年(1598年)に越後から
会津120万石へ国替えを関白・豊臣秀吉に命じられ
会津に移り、福島県・宮城県・山形の庄内が
上杉家の領土になった。
置賜から庄内へ荷物を運ぶにしても、最上義光が
治めている最上家の領土を通らなくてはならない。
山形の置賜地区は上杉の重臣・直江兼続に任せられ
庄内への荷物運搬や移動のため、山を開削し
道を切り開いたのが朝日軍道です。
右の図の置賜と庄内が繋がっている細い部分が
その朝日軍道にあたる部分です。


▲豊臣秀吉 ▲上杉景勝
豊臣秀吉の命による上杉家会津120万石の移封について
- 豊臣秀吉はライバルの徳川家康を、三河から荒地で不憫だった江戸に追いやり
伊達政宗においては北条と手を組み天下を狙おうとしていたので、奥州仕置で伊達家の
国力を減らし、不憫な地だった仙台に追いやった。
最上義光にしても、愛娘の駒姫を斬首され豊臣家には形だけ従っていたに過ぎない。
当然反感も出るであろうと、上杉家を鎮撫役の要役として移されたというのが一般的な内容だ。
片桐繁雄先生の説
最上義光の講師・片桐先生の話では、あれは上杉家の国力弱体を計り移封したと言っていた。
越後は日本海を背後にし、一つの繋がった領土として上杉家が古くから治めた強固な地なので
会津120万石に加増すると話を持ちかけ、会津と庄内の飛び地という不憫な地を与え
国力弱体を計ったと話していた。そう考えると歴史とは実に面白き物也。
つまり
織田信長ですら動かすことのできなかった上杉の地を、秀吉は利をぶら下げ、たった一言で
上杉家を移封させたということだ。当時の秀吉は自分の命令を断われば、国を没収するような
人柄であったため、上杉家はそれ知ってて断われず、渋々承諾し移封に応じたとも考えられる。
まぁ、秀吉のズル賢さを考えれば確かに有り得ない話ではなさそうか・・・
いずれにしても加増され一見便利そうに見える地だが、実際は不便な地だったのかもしれない。
朝日軍道を登山


何も無いと言われる軍道を登山
せっかく長井市に訪れたので、朝日軍道を
登山してきた。
総宮神社の宮司さんや
観光案内の方が言うには「朝日軍道には
何も無いよ~」と話すだけであった。
まぁただの軍用の道なので、何かあるとは
考えにくいと知っておきながらも早速登山。
道路側にある登山口には、左の看板が
建っていた。話しによるとここが入口也。
▲画像クリックで拡大可
何も無いのに何故か皆登る朝日軍道
- 「何も無いよ」と先に言われておきながら、行ってみたい理由はいくつかあった。
一つは先述した片桐先生や天地人の作者・火坂雅志さんなど、本を書いていた方は朝日軍道を
登っている。しかし何故か”入口まで”と話す。なぜ入口までしか登らないのか?疑問に感じる。
一応山形ブロガーなので、文章を書くという接点もあるし先人に習い登ってみた。
両者の話を聞いてもどこか抽象的な話ばかりで、無理やり直江兼続の話に繋げてないかい?
と思う内容で、むしろ本当に朝日軍道に登ったことあるの!?と思うばかりであった。
それでその謎を解き明かすべく登ってみたのだが、アッサリと答えが出た。
その答えとは・・・” 何も無いからだ(笑) ” 最初から何も無いから、話のタネに成りにくいのだ。
巨大な岩の大石大明神
あると言えば、大石大明神が入口から徒歩8分ぐらいにあった。
巨大な石を大明神として祀っているかのようであったが、現在では草が岩を覆いつくすように生え
天地人の旗が指してあるのみの場所だった。きっと管理するのが面倒になったんだろうな・・・
蚊がちと多いが絶景也!
されど何も無いとは言え、この長井市を見下ろせる風景は絶景なことよ。
他には花々や昆虫がいたので観察しながら朝日軍道を登山した。
それに昔の軍道がどんな所か見てみたい気もしたしね。上の風景は徒歩で20分ぐらいで見れる。
険しい山道をひたすら登る(汗)
一体どれほどの時間をかけて朝日軍道を登っていたのか、疲れのあまりよく覚えていない。
下山する時に時間を測ったが、下りるだけで1時間30分ほど経過してた・・・。
また随分な時間登っていたことに気付いたが、この険しい山道を上杉軍は甲冑や
武具装備でよく越えたものだな。
おや、春なのにセミがおるわい
2時間ぐらい経過したのかな。左のような分かれ道の立て看板があった。
右の『おけさぼり展望台』と書かれた所へ向かい、ひたすら登った。
動画で眺めても聞こえるが、春なのにセミの声が鳴り響いていました。
セミと言えば夏という印象があるが、あの蝉は早くから成虫になるのだろうか・・・

崖下の水では鳥が喉を潤してた
ひたすら登ってたら日も暮れ、このままでは葉山
まで行ってしまいそうだと気付き、必死で下山
しました(汗) 結局何も無いですね!
しかしまた随分と山の奥から水が流れている
のだな。「この山からの雪解け水が長井市の
田畑を潤し、やがて秋には豊かな米が実り
長井黒獅子祭りで賑わいます」(妻夫木ふう兼続)


ふぅ~
畑谷城までの道のりは結構遠いな。飲料水無しで登ったのが致命傷だった・・・
朝日軍道への行き方は少し分かりにくいが、古代の丘資料館という縄文時代の資料館が
ある所からさらに山側へ登ると、飯豊と白鷹を結ぶ道路へ抜けると
道路側に上の看板が建っているところが入口です。大石大明神までは車で強引に登れるが
車幅が1台程度と狭いのが難点か。何も無いので長く居る所でも無いが、少し登ると眺めが良い。
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