平安時代、伊達・蒲生・上杉の歴史の流れがある総宮神社

▲長井市のあやめ公園駅の近くにある
総宮神社(そうみや)の写真
- ・場所:山形県長井市横町14-24 電話:0238-88-3348
- ・駐車場:総宮神社本殿の裏の方に有り(無料)
- ・長井市の名物・特産品:サクラ、ツツジ、アヤメ、地酒、漬物、山菜、手打ちそば

多くの歴史舞台となった總宮神社
今回は長井市の横町にある総宮神社へ
訪れました。最近では
直江兼続の大河ドラマ
天地人のテレビ効果もあり、観光者も増え
直江兼続グッズや土産も新たに増えてた。
兼続が植えたと伝わる直江杉の側には
愛の前立てと説明の看板が設置されてた。
神社を観察すると不思議な箇所が多々あり
宮司さんに色々と話を聞いてきた。
赤崩山の山号と総宮神社の歴史
- 総宮神社は歴史深き神社で、山号は『赤崩山』という神社には珍しい山号が付けられている。
平安時代・延暦20年(782~806)頃の時代に、征夷大将軍の坂上田村麻呂による創建
と伝えられ、戦勝祈願として参拝されており以後『赤崩山白鳥大明神』と称す。
赤崩山とは、米沢市にある最上川の源流・松川の近くにある山で
総宮神社の祭神の一つにあたる日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、松川の洪水を鎮めようと
赤崩山に神剣を捧げ五穀豊穣を願ったのが始まりです。
上杉の重臣・直江兼続が米沢城へ入城した時代では、大雨が降ると米沢の城下は水に浸り
被害を受けていた。兼続は洪水から守ろうと、自ら赤崩山に登り反乱した川の様子を観察し
その後の直江石堤を築いた歴史ある山である。
拝殿にある上杉景勝の前立てぽい置物について
- 擬宝珠やら戸の開き仕様を眺め、典型的な昔の神社仕様だなと思いつつ周囲を観察していると
拝殿の奥の方には、上杉景勝の前立てに似た巨大なオブジェクトが置かれているのに気付いた。
それは左の写真のような形で、随分年季が入った物であった。
宮司さんに話を聞くと、あれは『神鏡』という物だそうだ。
江戸時代後期に奉納され、ご神体は人の目には見えないので、代わりに置いているのだそうじゃ。
調べてみると神鏡は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が授けた三種の神器の一つ・八咫鏡
(やたのかがみ)が起源のようで、古来の日本において鏡とは祭具として使われてきた物也。
つまり上杉景勝公は、神仏に対し信仰心が深かったので神鏡の前立てにしたということだ。


▲仙台・青葉城の伊達政宗の銅像 ▲片倉小十郎の居城・白石城
置賜地区が伊達家領土だった頃の歴史
置賜地方がまだ伊達家の領土だった頃の時代では、天正15年10月に伊達政宗と
家臣・
片倉小十郎が、鮎貝城の鮎貝宗信と合戦になり伊達政宗が勝利している。
総宮神社周辺では、その合戦の最前線となった。

蒲生時代で合祀し総宮神社の誕生
その頃天下統一をせんとする太閤・豊臣秀吉が
伊達を警戒し奥州仕置を実行。伊達政宗を
米沢城から仙台へ国替えを命じ
代わりに蒲生氏郷が米沢城の領主となる。
文禄2年(1593)、米沢城主の蒲生氏安が
下長井郷四十四村の神社を合祀し
社号を惣宮大明神(そうみや)と改めている。
▲画像クリックで拡大表示可

上杉鷹山公に許可され本殿を大改修
- 米沢城主が上杉鷹山公の時代になると
天明の飢饉により全国で餓死者が多く出た。
置賜地方の方では全国に比べ、餓死者は
かなり低い数字で、宮村では一人も餓死者
は出ずに済んだと伝わっている。
当時の米沢城では、上杉の城下町と言えど
財政は困難なもので借金だらけだった。
天命の飢饉後には、大明神(総宮神社の本殿)の大改修を願い上げたところ
上杉鷹山公は「当地第一の鎮守なり、よって特恵をもって許可す」と言い
財政困難な時代であったが、本殿に必要な木材を全部寄付し、長井郷44カ村では建設費を出し
工事総監に竹俣当綱をあたらせ大改修を行った記録がある。天明2年8月5日に工事完了。

山形県指定有形文化財の馬頭観音像
總宮神社の隣には、馬頭観音堂がある。
馬頭観音様と言えば馬の守護神です。
頭には馬が乗っており強烈な怒顔であるが
馬の供養や人の煩悩や悩みを解消する神。
中には鎌倉時代に羽黒の僧運慶に彫らせた
と伝わる文化財の馬頭観音の像がある。
旧暦の7月10日に合わせ、盛大に馬の祭り
を行っているそうだ。
▲木造馬頭観世音菩薩立像
総宮神社に植えられている直江杉

▲直江兼続が手植えしたと伝わる直江杉

直江杉について
- 総宮神社の鳥居周辺には、何本か杉が
植えられている。数にして10本ぐらいかな。
この杉は直江杉と呼び、慶長3年(1598)に
上杉景勝が越後から会津120万石に移封され
直江兼続が米沢城を任せられ入城した。
兼続は、下長井一ノ宮に参拝し直江杉を植え
刀剣を奉献したと伝わっている。
1600年の畑谷城から長谷堂城で最上軍との合戦が始まる前には戦勝祈願を行ったそうだ。
長井市の側には最上川が流れており、最上川で舟運していた船頭達は直江杉を遠くから眺め
長井市に入ったと実感し目印にしていたそうだ。
船頭達は東西に一文字に並んでいるので、直江杉とは呼ばず『宮の一文字杉』と呼んでいた。
当時は周囲には何も無かったので、見渡しの良い地形だったそうな。
1本だけ不思議な杉があるのに気付く
直江杉は今では神社の御神木として祀られているが、石鳥居の横にある直江杉の
一本だけが2つに別れている不思議な杉があった。
それで総宮神社の宮司さんに話を聞いたら、杉は途中で2つに別れる杉もあるのだそうだ。
そういった現状になるのは大変珍しいそうで、さすが御神木と言ったところか。
総宮神社の宝物殿

▲直江兼続が奉献したと伝わる刀剣

直江兼続が奉献した刀剣
総宮神社では無料で入場できる宝物殿あります。それで中へ招かれたので眺めた来た。
写真は宮司さんに、撮影の許可が下りた
ので遠慮なくシャッターを斬ってきた。
中へ入ってみれば、これは驚いた!
直江杉の存在は昔から知っていたが
兼続公は刀剣まで奉献していたのか。
羽黒山では鉄の擬宝珠を奉献してたな~
直江兼続が奉献した刀の内容
- 刀長:二尺四寸一分、反り:7分、地鉄:板目 柾目交り、刀文:直喰い違い刃交り、造込:本造り刀
慶長3年に直江兼続が参拝しに訪れ奉納したと伝わる無名の刀で、斬るための刀では無く
奉納用の反りの浅い刀を納めている。特に飾り気や彫りなども無く、室町初期から中期にかけて
上越で打たれた刀だそうです。総宮神社では奉納後も、改修による恩恵も受けているようだ。
日本刀の魅力については、前に
上山市の蟹仙洞の館長に厚く語って貰ったことがあり
刀の良さについてはかじる程度なら分かるが、長く奉納してた刀なのかサビが所々目立ち
銘も彫られてなかった。武士道の著者・新渡戸稲造の本によれば、昔の人は刀を名家や神社
などに奉納する習慣があったようだ。それで兼続も奉納したのだろう。
最上軍から入手した戦利品、木造彩色神像五躰
- 他にも歴史を感じる物があった!こちらの木像は直江兼続が率いる上杉軍が朝日軍道を通り
一説には2万~4万の兵で、最上軍の最前線にあるお城の畑谷城を襲い撫で斬りを行った。
上杉軍は素早く畑谷城を落城させ畑谷村を壊滅させた。
兼続が戦火の中から持ち帰ったと伝わる木造彩色神像五躰(さいしきしんぞう ごたい)です。
山形県貴重文化財、長井市指定文化財で、戦利品とも言われているこの仏様は
どこに置いても畑谷村の方に、向きを変えるという言い伝えがあるそうな。
まぁ上杉の兵が回収した気もするが、さすがの直江兼続も敵軍は討てども、仏様までは燃やせず
自軍に持ち帰ったのであろう。
長井黒獅子まつりの歴代の獅子頭
長井市に来る時に、
長井黒獅子祭りで獅子頭がずらりと展示されると知っていたが
今年は祭りには行けず、今回は盛り上がったのだろうか・・・?見に行きたかったなと考えてたら
数分後にずらりと並ぶ獅子頭とアッサリご対面を果たした(笑) ご縁とは実に分からぬものだ。
長井黒獅子祭りでは、こちらの総宮神社で貸し出しを行っていたようだ。

天地人の商品展示や観光案内を行ってた
えーと宝物殿には他にも指定文化財に
なっている、巨大な絵馬が3枚と
室町時代の狛犬、鬼瓦などもございました。
今では天地人効果により、観光色が強く
なってきている神社でございますが
歴史ある神社とは、どこか場の空気が
若干違うものだ。団体観光向けには
宮司さんが建物の説明とかやってた。
長井市の總宮神社への行き方は、あやめ公園駅から近い所にある。
駐車場は本殿の裏手の方にあり、20台ほど駐車できそうでした。(無料)
付近には、長井あやめ公園があり5月下旬~6月下旬には500種100万本のアヤメやカキツバタ
6月中旬~7月上旬には花菖蒲が咲くので、セットで眺めに訪れても良いかもね。
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・公式サイト:
山形 長井一の宮 總宮神社
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