織田信長の死と、織田家のその後の行方の歴史


織田信長
▲織田家・宮内庁・天童市の御霊屋・三宝寺にある織田信長肖像画。

織田信長
山形と織田家を繋ぐ歴史を紐解く
織田信長が明智光秀に本能寺の変で討たれると、その後織田一族の末裔がどうなったか?を知る方はあまりいない。

ましてや山形県に織田の一族が生活していたという事実を知る者は、山形人ですら知る者が少ない。織田家と山形はどう関係して
いるのか?順を追って歴史の流れを観察。

信長の肖像画について
上の肖像画は織田家に伝わる画で、御霊屋に飾られているものだ。当時の宣教師が描いた物
と伝わり、信長にもっとも似ていると言われていることから、信長本人では?とも言われている。

豊臣秀吉木下藤吉郎
豊臣秀吉と、岐阜県安八郡墨俣町の墨俣一夜城歴史資料館前にある木下藤吉郎の銅像。

信長の死と家督相続。そして秀吉と争い改易
天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長が本能寺の変で、明智光秀の謀反により滅びた。
信長の子・信忠も亡くなり、家督は信雄が継ぎ100万石(尾張・伊賀・南伊勢)の領主となった。
小田原征伐後の時代になると豊臣秀吉と考えが合わず、信雄は秀吉の怒りにふれ改易。
100万石の領土と大名の地位を奪われ、信雄はその後出家した。

月日が経つと徳川家康の救助もあり、秀吉に罪を許され再出仕し、相伴衆に加えられ大和国内に
1万8千石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、どちらにも味方せずの状況
だったので、今度は徳川家康から改易されてしまう。

名古屋城名古屋城
愛知県名古屋市にある、織田信長誕生の城の名古屋城。

織田信雄
織田信雄は5万石の大名に復帰
大坂夏の陣後の元和元年(1615年)7月23日に
家康から大和国宇陀郡3万石と上野国甘楽郡
2万石を合わせた5万石を与えられ、上州・小幡城という群馬県の地で生活することになった。

信雄が隠居後は、子の信良に上野国の
甘楽・多胡・碓氷の3郡の2万石を分け与え
残りの3万石は一族に譲った。
                                      ▲織田信雄の肖像画

織田家は小幡織田藩となり、以後、信昌・信久・信就・信石・信富・信邦と藩主が時代と共に変わり
少ない石高なので、豊かとは言えなかったが約150年間甘楽郡を支配していた。

織田家の系図

事件に関与したと見られ、群馬県から山形県の高畠へ懲罰移封
明和4年(1767)8月になると、織田家の老臣が山県大弐事件という、幕府の覇権を批判した事件に
関係していると見られ、上州・小幡城は没収されてしまい出羽国高畠2万石(山形県置賜郡高畠町)
に左遷されてしまったのである。

その頃の藩主の8代・織田信邦は、上の事件によりまだ22歳という若さだが責任を取り隠居。
高畠に移る際には、信浮(のぶちか 信邦の弟)が9代藩主となった。まだ2歳だったそうだ。

群馬から山形へ、高畠織田藩


城跡の堀高畠城跡
現在も一部だけ残る高畠町の高畠城跡の堀の様子。本丸跡には小学校が建てられている。

当時の出羽国高畠の様子
高畠の主な歴史の流れは、約50年間、伊達氏が置賜の備えてして高畠城(鐘ヶ城)を築いた所で
移ってきた当時の高畠は、米沢から仙台を結ぶ新宿街道の地域だった。

その高畠城に織田氏の陣屋が置かれ、出羽国高畠2万石で生活した。
高畠に移ってきた頃の米沢では上杉鷹山公が治めていた時代で、高畠は上杉の城下町のような
殿様が住む立派なものではなく、石高も低いただの村が集まっただけの辺ぴな土地柄だった。

貞泉寺妙国寺
左:貞泉寺、織田家の菩提所で藩主の伯父・織田信常の墓がある。右:妙国寺、織田家臣の墓。

高畠での苦しい生活
高畠での生活は幕府に嘆願書を何度も提出する日々が続くばかりで、治世を治めた実績も無く
『家格の復旧や旧領土への復帰を願うことのみに明け暮れた殿様』と言われるほど苦しいもので
2万石の領土ではとても生活できるものではなかった。

1800年には嘆願書が許され、村山郡17ヶ村が新たに織田氏領になり、2万3千石余りとなったが
江戸にあった藩の屋敷が火災で焼失したり、1810年には高畠陣屋が自火により全焼。
飢饉による餓死が出て労働力不足が追討ち。1801年には、凶作により米の価格が高騰し
山形・天童など大規模な一揆が起こるなど、どこも経済状況が傾くばかりで不景気だった。
わずか2万石の高畠織田藩は、昔の織田家の威光は無く、大名とは言えないほど力が無かった。

紅花
幕府への嘆願書と、紅花での経済対策
10代・織田信美(のぶかず)は、高畠での
生活が苦しかったので天童での紅花生産と
豊かな土地による経済有利さを考えた。

紅花は、染料や化粧として使用され
『紅一匁(もんめ)は金一匁』と言われるほど
貴重な材料であった。
ベニバナは、身分の高い者や裕福な者しか
使用が許されなかった高価な物である。

幕府に高畠から天童への国替えを認められる
そこに目を付けた高畠織田藩は、幕府へ村山郡にある天童へ居城を移したいと嘆願書に
つづり願い出た。文政11年(1828)にそれが幕府に認められ許可された。

高畠から天童へ、天童織田藩


天童城跡の御殿天童御陣屋絵図
左:現在の天童城・御殿跡。右:天童御陣屋絵図(*画像クリックで拡大表示可能)

天童織田藩の誕生
高畠から天童への国替を幕府に認められると、文政12年5月に、天童城の造営が開始された。
城と言うよりは御陣屋の造りで、舞鶴山の近くに陣屋は建てられた。

1年6ヶ月の急ピッチの工事で、佐藤次右衛門の御鑑定書によれば総金額2071両余とある。
今の金額だと1億2千万ぐらいかな。当時は米が高騰し、一揆が起きてたのでさらに値は張るかも。
天保2年(1831)8月15日に織田信美も入部し、こうして天童織田藩が誕生した。

天童御陣屋
安政元年に焼失し同6年に再建された天童御陣屋の様子(模型)、旧東村山郡役所資料館ご提供

天童での苦しい生活
紅花の生産で経済面を立て直そうと高畠から天童へ移ったが、生活はとても苦しかった。
そもそも織田家は群馬での生活ですら借金があり、群馬から山形への引越し代、高畠陣屋の全焼、
飢饉による天災、天童の御陣屋の建築費、と出費ばかり続き借金だらけの状況だった。
資金が無い状態なので、年貢を前借するなどしていたようだ。

天童での紅花の生産では『裸裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果』と唄われるほどで
織田家の借金はいかほどであったのか計り知れないものだ。というか泣けてくる・・・

吉田大八と天童の将棋駒、藩校の養正館


吉田大八
天童の将棋駒の誕生
現在の日本では、天童市は日本一の将棋駒の生産地
であり、およそ95%が天童市で作られている。
戊辰戦争で最後を遂げた吉田大八は、天童での生活が
苦しいため、救済策として下級武士を米沢藩に遣わし
将棋駒の制作方法を学ばせ、その技術を天童へ持ち帰り
武士に内職として作らせたのが始まりである。

天童織田藩校 養正館の設立
天童織田藩は家臣が2百人程度しかいない小藩で
あったが、家臣に対しては文武両道でなくてはならいと
財政窮地で苦しかったが学問所と武芸の稽古所を
現在の田鶴町に設立した。

養正館の学長は吉田大八で、江戸に遊学し安積艮斎に
国学を習い、天童に帰って来てから藩校養正館を開いた。
開校されたのは文久3年(1863)。
明治4年(1871)の廃藩置県と共に閉鎖されたが
約10年もの間、この学校で多くの人材を育てた。
                                     ▲吉田大八守隆(だいはちもりたか)
養正館学訓

天童織田藩と戊辰戦争


織田信敏織田信学
▲織田信敏(富久之助)                 ▲11代藩主・織田信学

新政府軍と幕府軍による争い、戊辰戦争
慶応3年(1867)10月に、15代将軍・徳川慶喜が朝廷に大政奉還すると
薩摩・長州・土佐藩の新政府軍と、徳川幕府を重んじる幕府軍とで対立し武力衝突した。

当時の山形の庄内地方では徳川に仕えていた酒井家が治め、江戸市中取締りとして
薩長軍に反抗してきた。福島県(会津藩)では松平容保(かたもり)が幕府軍の主力であり
鳥羽・伏見の戦いで争ったが、幕府軍の総大将・徳川慶喜が撤退を命じ大阪から江戸へ敗走。

京で幕府軍討伐の会議に出席
慶応4年(1868)1月10日、朝廷は鳥羽・伏見の戦いの首謀とみなす徳川慶喜と松平容保
及び会津藩を武力でもって討伐を掲げた奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく) が出された。
17日に仙台藩主・伊達慶邦は命じられ、24日に米沢藩・盛岡藩・秋田藩には
仙台藩が討伐するのを加勢するよう命じられた。

天童織田藩ではその会議のため10日に、天童藩主・織田信学が速やかに上京するよう命じられた。
しかし信学は脚疾の病気だっため、代わりに富久之助(ふくのすけ、後に信敏)と吉田大八らが行かされた。富久之助に至ってはまだ子供なので、天童藩の中老・吉田大八が代役として会議に出席。

織田家の家紋

吉田大八は先導役を命じられる
庄内藩は前年度の収米2万3千余俵を、最上川を下り酒田の倉庫に収納した行為が
朝廷側から見ると天朝領土から奪い取った、と見られ鎮撫総督は庄内藩の討伐を掲げた。
それで吉田大八は、庄内藩を攻める鎮撫軍の先導役を命じられた。

大八は自分はあくまで代役として来ただけで、その様な重役は承諾できないと思っただろう。
しかし天童藩はわずか2万石の小藩にすぎず、この同盟の加盟に対し拒否できる
立場になかったので、首を縦に振らざるを得なかった。また徳川家からは冷遇され織田家は
群馬・高畠・天童と苦しい生活を歩まされてきたので、そこに付け入れられたのかもしれない。
京都から帰ってくると、吉田大八は何とか庄内藩との武力衝突を避けようと奔走した。

大八の先導と奥羽鎮撫軍の進行
3月19日に奥羽鎮撫軍が松島から仙台に入り、織田信敏(富久之助)は天童藩主に任命された。
24日に吉田大八は藩主から家老に命ぜられ、采配を与えられた。
4月17日に吉田大八は沢副総督と一行らを山形城下に先導し、次の日に上山で閲兵式を行った。
19日に奥羽鎮撫軍は天童に入り本陣を置き、22日に新庄へ向かい翌日着陣し本陣とした。


止めれなかった庄内軍との戦闘
新庄に着陣すると、4月24日に鎮撫軍は攻め入り庄内軍と戦った。
26日に六十里越街道から村山郡へ入り布陣した。山形・天童・北目・漆山・東根の陣屋兵が
上の地図の箇所に布陣し庄内軍と睨み合いになった。

庄内軍の激しい攻めに鎮撫軍は逃走
閏4月4日の夜明けと共に庄内軍は総攻撃を仕掛け、山形藩兵が守備していた落合を撃破すると
野田・仁田・田川・蔵増と次々と撃破し、庄内軍1万の兵は矢野目街道・八反道・小関街道の
三方から天童を襲撃し、天童の御陣屋・家中屋敷・善行寺・三宝寺など火を放たれ全焼した。
織田信学は、家族や家臣と共に宮城県にある秋保温泉に避難した。

鎮撫軍の敗退理由と、恨まれる吉田大八
敗因理由は鎮撫軍の人数の少なさと、軍を指揮してたのが公家の出身であり
軍略的な戦い方も知らず兵を動かしたからではなかろうか。
仙台藩に援軍を要請しても拒否され、山形藩では城がしっかりし守りは堅いが
守備する人数が少ないため、無駄に広い城壁はほとんど機能していなかったとある。
一方、庄内藩は徳川四天王の酒井家の流れを組み、江戸の警衛の中心的な役割を務めていた。

庄内軍は天童を焼き払ってからは、長瀞・楯岡で兵を休ませ地元へ帰還。
ボコボコにされた鎮撫軍は敗走し、吉田大八は庄内軍が帰ると庄内軍と繋がりのある東根市の
長瀞を焼き払い、知人宅に潜伏してた。東北諸藩では吉田大八は鎮撫軍を先導し
奥羽を戦争に巻き込んだ大罪人とし、吉田大八を 『 生捕候モノハ為賞誉百両取ラセ可遺候 』
と懸賞金を賭けた。

奥羽列藩同盟と新政府との争い


会津若松城
戊辰戦争で悲劇の舞台となった福島県にある会津若松城(鶴ヶ城)

高まる奥羽鎮撫軍の不満と奥羽列藩同盟
奥羽藩らは和平を望んだ解決だったが、武力で治める総督との意見が合わず不満は高まるばかり。
各藩が集まり白石会議で、奥羽25藩重臣による会津藩の謝罪嘆願を作成し、総督府に提出したが
総督府の参謀・世良修蔵の意見により却下。それを怒った仙台藩は世良修蔵を襲い斬殺した。

その時、世良修蔵は会津討伐後は、東北の佐幕派の藩を討つという密書を持っていたのだ。
*佐幕派=会津藩や庄内藩など尊皇攘夷派から、幕府の政権を守ろうとする諸藩らのこと。

奥羽列藩同盟の参加・各諸藩一覧表
山形米沢(山形)新庄(山形)庄内(山形)天童(山形)上山(山形)
福島相馬中村(福島)平(福島)棚倉(福島)泉(福島)三春(福島)
会津(福島)下手渡(福島)守山(福島)湯長谷(福島)二本松(福島)秋田
亀田(秋田)矢島(秋田)本庄(秋田)久保田(秋田)黒川(新潟)長岡(新潟)
村上(新潟)新発田(新潟)村松(新潟)三根山(新潟)八戸(青森)盛岡(青森)
弘前(青森)松前(北海道)一ノ関(岩手)仙台(宮城)--

白石会議で5月3日に奥羽列藩同盟が結ばれた。(途中で新政府に寝返った藩も有る)
天童織田藩も加盟を求めたが、条件として吉田大八の身柄引き渡しを要求した。
行方を暗まし、潜伏していた吉田大八は天童藩の事情を知り、自ら米沢藩に自首した。

観月庵
天童市にある観月庵。1868年にここで自刃した。大八の血は天井まで赤く染めたと伝わる。

大八は藩の責を負い切腹。そして戊辰戦争の終焉
その後吉田大八は天童藩へ引き渡され、6月18日に現在の舞鶴山側の観月庵で
『絶命の辞』と『辞世の句』を書き、妻と子を残しそして切腹。37歳の生涯を閉じた。
辞世の句 『 我のみは 涼く聞くや 蝉の声 』

奥羽列藩同盟は、新政府に最後まで抵抗した。しかし9月に入ると奥羽列藩同盟の中枢にあたる
仙台・米沢藩は降伏。悲劇の舞台となった会津若松城の松平容保が降伏し戊辰戦争が終わった。
彼らは最後まで自分らの行いが、義に反していないという一心で戦い、そして多くの方が死んだ。

明治2年(1869)、各藩主の土地が天皇に返された版籍奉還が行われ、各藩に知事が置かれた。
天童藩では織田寿重丸、続いて新政府に隠居を命じられたが、寿重丸がまだ幼かったので
織田信敏が当主再承が認められ知事となった。

織田信長を祭神としている建勲神社
信敏は明治3年(1870)11月17日に天童の舞鶴山に社殿を造営し、織田家始祖である織田信長を
分霊として祀った。建織神(たけしおりた)の神号を贈ったが、後に建勲神社(たけいさお)と改称。
織田信敏は、明治34年(1901)6月6日に48歳で生涯を閉じた。

建勲神社




記事のコメント

近くにある物ほど見えにくき物也^^
ふむふむ、5,6年前の私とそっくりかな。

私は旅の本質をよく考え、そこから捨てることよりも
活かす(救う)道の方へと考えを変えました。
信長の館のことかな。懐かしいな、忍者屋敷で世話になった爺さんは元気だろうか。
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