日本一の大地主・本間氏の本間家旧本邸

▲酒田市にある、
本間家旧本邸の建物。
- ・場所:旧本邸・山形県酒田市2番町12-13、0234(22)3562
- ・開閉時間:3~10月は9:30~16:30、11~2月は9:30~16:00、休館・年末年始、展示変え日
- ・入館料:大人700円、美術館とセットで購入すると若干値段が安くなる。
- ・酒田市の名物・特産品:庄内米、ただちゃ豆、庄内柿、酒、どんがら汁
- ・宿泊先:酒田市格安宿泊ホテル旅館

庄内の豪商・本間家の歴史を観察
酒田市の偉人は誰なのか?と聞かれれば
誰もが間違いなく本間家だと答えるだろう。
それほど力のある豪商なのだ。
まず酒田市の中心にある本間家旧本邸
から眺めに行った。ここを管理されている
方は、本間家10代当主の長女(社長)
が管理・運営を行っているそうだ。


▲3代・本間四郎三郎光丘 ▲本間家の家紋の一つ
本間家の繁栄の歴史
- 本間家は相模国本間村の出身で、新潟を経て永禄年間・1558年辺りから酒田に移住。
1688年、久四郎原光(もとみつ)が初代で、主に蝋・古物・薬・瀬戸物を扱う商人から始まった。
その後、商業以外でも金融や地主の道でも成功し成長していった。
発展の礎を築いたのは本間家3代・光丘(みつおか)で、庄内藩酒井家のために幕府の巡見使
一行の本陣宿として明和5年(1768)に新築し献上。その後拝領し、本邸としたのが写真の建物だ。
幕府の命により莫大な出費が必要になった時や、凶作により資金不足になった時に
本間家は資金を援助し、後に500石の士分を許され、庄内藩の御用商人となった。
どのようにして豪商になったのか?
もっともどんなことをしたら、その様に儲かるのか?と言うと、酒田の港から北前船を出し
荷物を運んでいた。他の地で安く仕入れる物があれば調達し、それが高く売れる所へ卸す。
という方法で、徐々に成長していったようだ。
豪商になったのは約4代目あたりからで、1737年の庄内藩の御用金上納書を見ると
2位の高額者との差は、倍の差をつけている。その豪商ぶりの凄さは
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と歌われたほどだ。
第2次世界大戦前までの本間家は、土地が約3千町歩、小作人は約2千7百人ほどで
日本一の大地主の名をはせていた。

薬医門と漆喰の白壁
武家と商家を合わせた珍しい屋敷


2つの建築様式が合わさった屋敷
本間家旧本邸の中は、中央の仏間を挟んで武家屋敷と商家造りに別れ
全国的に見ても大変珍しい造りとなっている。南には長屋門、東には薬医門があり
土蔵の中には天下泰平五穀豊穣を願った七社の宮がある。母屋は桟瓦葺(さんがわらぶき)の
平屋書院造り。この造りは山形県内ではここだけで、建物は山形県指定文化財になっている。
武家屋敷
- 武家屋敷の方は、柱のどれも見ても節の無いケヤキ・ヒノキを使用し、最高の技術と素材を用いた
造りになっている。およそ200坪に部屋数は23あり、ガラスは日本で初めて作られた明治初期の
ガラスを使用。欄間を見ても隣に話が聞こえないよう、密談を交わす部屋も用意され
殿様やお坊さん・県知事・本間家当主など偉い方しか入れなかった部屋もあり
2千石の旗本屋敷の格式を備えた造りの建物である。
庭の方はそれほど広くはないが、畳園と板園の2重の造りになっており、外から槍が届かない
構成になってる。屋敷内でも天井が高い所で3.3mあるが、武士が刀を振り回せない設計で建築。


▲庭には本間家が千石舟で運んで佐渡の赤石がある
商家
商家造りの方は、本間家が普段生活する時に使用していた部屋で、武家屋敷の方は普段は
使用していなかったようだ。本間家では7ヶ条の家訓などもあり、それは豪商でありならが
質素倹約に励むこと義務づけられ贅沢は禁止されていた。自分らが使用する商家の方では
特別な派手さは無い造りになっている。
台所にあたる御勝手では、本間家は多くの社会貢献をした身分故、商人でありながら武士の身分を
許されていた。そのため本来は土間だが、板張りの台所を許されていた。
釜戸の火が飛び火し台所が燃えるのを防ぐため、当時では珍しい鉄板を使用。
木材の組み方は地震対策を施し、ネズミが登れないようネズミ返しなどの技術も組み込んである。
本間美術館の鶴舞園と清遠閣

▲本間美術館に広がる庭園・鶴舞園(かくぶえん)の様子

本間家の別館と美術品が多くある所
本間家旧本邸から車で約5,6分離れた場所には
本間美術館がある。美術館の中は庄内藩酒井家
や米沢藩上杉家などの拝領品を中心に
展示されている。
昭和22年(1947)に開館した建物のようだ。
狩野永徳が描いた屏風で
上杉本洛中洛外図屏風とよく似た作品もあった。
▲本間美術館
清遠閣と鶴舞園
- こちらでは本間家の別荘・清遠閣(せいえんかく)と庭・鶴舞園があり、広さは約2万㎡。
清遠閣は本間家・4代光道(こうどう)が文化10年(1813)に、庄内藩主の領内巡視の休憩所
として建造したのが始まりで、本間家の別荘としても使用された建物。
さらに冬季期間に至っては、北前船が出せないので冬の失業対策を兼ねて建造されたもの也。
鶴舞園の方は、諸国から運んで来た名石が置かれ貴賓の漂う庭園で、多くの名士や貴族を
迎えた所のようだ。清遠閣の中の方は、木造2階建銅板瓦葺の造りで
こちらも美術品や当時の資料などが展示されていました。
鶴舞園の名前の由来となったのは、庄内藩主10代・酒井忠器(ただかた)が東屋の側にあった
老松に鶴が飛んで来ることから、鶴舞園と命名されたのだそうだ。


千石船と光丘文庫
本間家の社会貢献
と、まぁ本間家は殿様より力のあった豪商であることが分かったが、多くの社会事業や救済活動を
行ってきたようだ。庄内は海辺にある地なので強風・風砂による被害が多いが
莫大な私財を使用し、東西約450m、南北約1.8kmに植林し砂防林を作った。
他にはお寺の建築・改修などや、
日和山公園の方には光丘文庫(こうきゅう)と呼ばれる
資料館を建て学問を大事にした。酒田市には多くの社会貢献の跡が見られる。
本間家は豪商の枠を越え、何が大事なのかをよく理解し、実行した一族なのでしょうな。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」か~
本間家旧本邸は酒田市の中心都市にあるし、漆喰の白壁で目立つのですぐ分かるだろう。
駐車場は道路を挟んで隣(薬医門側)にあった。
美術館の方は歩きだと15~20分ぐらいかかるかもしれません。向こうの駐車場は広々としてます。
それで本間家旧本邸の道路を挟んで手前の方には、本間家の別館「お店」があり
土産品のお店で、本間家に関する資料や瓦などが一部展示されてました。
槍のような道具で、逃げた泥棒を引っ捕らえる道具なども飾ってた。
てか、本間家は別館いくつあるのよ(驚)みたいな・・・
本間家関連サイト
・
本間家旧本邸のホームページ
記事のコメント