不景気の世に見る米沢藩主・上杉鷹山公の経済改革


上杉鷹山
米沢城・上杉神社の参道にある上杉鷹山公の全身銅像。

上杉鷹山公
上杉鷹山公に学ぶ経済対策
現在の世界各地や日本では、不景気の世が訪れ
正社員や派遣切りで失業者が増えどこも苦しい。
が、今よりさらに苦しい世を経験してきた地がある。
それは米沢藩だ。果たして彼らはどのようにして
そのような危機を乗り越えたのだろうか?

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』
という言葉がある。つまり大抵のことは過去の
人々が対策を取り、乗り越えてきたのである。

今の世にそれが通用するかは少々疑問だが
今だからこそ必要とされる知識か・・・
と考え、米沢で学んだ知識を合わせまとめてみた。

松ヶ岬神社
米沢城跡と鷹山公を祀っている松ヶ岬神社

上杉鷹山とは?
宝暦元年(1751)7月20日に、高鍋藩主・秋月佐種美(たねみつ)の2男として江戸屋敷で生まれた。
幼名は松三郎、または直松。16歳に元服して治憲(はるのり)と改名。
家督を息子に譲り、隠居後52歳に鷹山(ようざん)と名乗る。

旧暦の1769年8月23日に幸姫(よしひめ)と結婚し、10月27日に19歳の時に米沢へ入部する。
江戸の正室・幸姫に婿養子として嫁ぎ第9代の米沢藩主となったが、幸姫に至っては生まれつき
心身の発育が遅い障害者で30歳で病死。普通の生活を送れず2人の中には子は生まれなかった。
米沢藩の方の側室にはお豊の方がいて、生まれた子・治広(はるひろ)には35歳で家督を譲り
第10代米沢藩主に継がせる。

鷹山公は米沢藩で反対勢力に押されながらも大倹約令を実行し、米沢の財政を立て直し
発展の基礎を築いた人物である。華美な生活は一切せず、質素倹約な生活を自ら行い
藩の手本として生涯続けた。故に鷹山『公』と付けられ呼ばれるのが一般的である。

米沢城跡

米沢藩の借金地獄と財政圧迫の原因

まずは当時の米沢藩がどう苦しかったのか?を簡単にまとめてみた。

  • 1.慶長6年(1601)の関ヶ原合戦後に、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減石されしまった。

  • 2.上記記載により石高を大規模に減らされたが、上杉家の異常に多い家臣数が変わらなかった。

  • 3.第3代・上杉綱勝が後継者を定めず急死し、吉良上野介の子が上杉の家督を継ぐ際に
     手続きの申請に不手際があり、米沢30万石から15万石に減石されてしまった。

  • 4.上杉鷹山が家督を継ぐ前の、歴代の藩主や財政担当者が、財政状況に対し無関心だった。

  • 5.上杉家は古い格式を重んじ、着る・食べる・乗る・習慣的な行事に費用は惜しまず金を使った。

巡る巡る負のスパイラル
大きく分けるとザッとこんな感じだ。上の内容について軽く説明すると
2は寛政5年(1793)の分限帳によれば家臣数が5398人とある。会津藩時代の頃とほとんど
変わらぬ人数だ。それで領土が、会津120万石から米沢30万石に減らされ
今で言うと大赤字の出る会社なのに対し、社員をリストラにしなかったのだ。

4と5については、上杉家では謙信の時代より伝わる格式があったようで、何をやるにしても
定まったことを行っていた。例えば習慣的な行事の移動にしても家来やお供の人数、
着る物なども定められており、格式を重んじすぎて大赤字が出ようとも変えようとしなかったのだ。
さらに上杉家の藩主や財政担当者らは、借金がいくらあったのか把握していなかったようだ。

上杉家第4代までの系図

吉良上野介に乗っ取られた米沢藩
もっとも負のスパイラルに拍車をかけたのは3に登場する、幕府高家衆・吉良義央(きらよしひさ)
からの代からだ。ご存知の方も多いだろうが、時代劇や映画でよく知られる忠臣蔵で
赤穂の獅子達らに、殿の恨みと斬られた吉良上野介(こうずけのすけ)と呼ばれる人物。

上杉家では第3代・綱勝が急死すると、綱勝には子も養子もいないので改易の危機に立たされた。
吉良義央と綱勝の妹・参姫の子・綱憲に家督を継がせるよう、幕府に願い出て何とか継がせた。
しかし改易にならずに済んだが、領土15万石を取り上げられてしまい、米沢15万石になった。

2代・定勝の代までは貯金が14,15万両ほどあった。現在の価値と比べると90億円ぐらいの
貯金ではなかろうか。それが4代・綱憲が継ぐと寛政の削減までは6万両ほど貯金が残っていたが
華美な生活により財政が次第に圧迫していった。

約6年分の借金と商人からの信用失墜
上杉鷹山の時代になると借金は雪達だるま式に増え、米沢藩の借金は約16~20万両
(約120億円)ほどの借金に膨れ上がっていたと商人による記録がある。
さらに高金利でお金を借りていたので、果たして120億円で済んでいたかどうかすら不明だ。

当時の米沢藩にとって100~120億の資金は、米沢藩の総支出の約6年分にあたるもので
いかに規模が大きすぎる借金だったかは容易に見てとれるものだ。
江戸の商人からは信用を失い、金を借りるのが次第に困難になっていった。

米沢藩では借金が返せず、古い木や桜などで借金を返すなどといった方法でしかお金を返せない
ほど貧しかった。当時は博奕死刑令(ギャンブル)などもあったほどだ。
鷹山公が継いだ当時は、実際に自己破産書を書いて幕府に提出するかどうか迷っていた。

上杉鷹山公に見る財政回復の建て直し


上杉鷹山公

して、米沢藩は借金地獄で日本一貧乏な藩だったことが理解できたが、一体どのようにして
財政を立て直したかを簡潔にまとめてみた。

  • 1.人員の整理

  • 2.田畑の整備と、漆・桑・楮の百万本の栽培計画

  • 3.殖産興業に力を注いだ

  • 4.米織物の工場を開いた

  • 5.実用の学力と人材育成

  • 6.上書箱の設置

  • 7.神仏に誓い願った

人員を必要最低限に留め、格式の見直し
1は上杉鷹山公が家督を相続した時に、藩士の給与総額だけで藩の収入の90%以上を
占めていたのだ・・・。藩の収入が15万石なのに対し、5千人の家臣の給料だけで13万石とある。

これでは米沢藩がいくら努力しても、借金が返せない理由がすぐに分かる内容だ。
鷹山公はこんな狂った藩があるか!?と人員の整理を大規模に行った。
参勤交代による出費を抑えるため、人数を減らしたり
奥女中なども当時は50人ほどいたが、9人にまで減らし必要最低限の人数に絞った。

さらに悪化の原因にある、謙信時代から続く古い格式も消費が少ないよう変えていった。
こういったことは格式を重んじる旧臣らにひどく反発され、必ずしもうまくいくものではなかったようだ。

籍田の碑
現在も残る鷹山公が籍田の礼にならい、自ら耕した地。中央の碑は、籍田の碑。

農地開発
2はこれまで米沢藩の重要な財源となっていたのは、上杉謙信の時代から続いていた
青苧・蝋による収入だったが著しく衰えていた。
まず米の生産高を上げるために、米沢北部から南陽にかけて水路を引いたり
山をくり抜いて黒井堰と呼ばれる、農業用水路を何十年もかけて完成させ米の増産を図った。

藩の農業生産を上げるために田畑の農地改革を行う一方、安永4年(1775)9月には
竹俣当綱と計画し、漆・桑・楮の木を百万本を植えた。
(漆の実はロウソクになり、桑は絹糸作りの養蚕に、楮は和紙の原料になる)

上杉鷹山は質素倹約な方であったが、こういった未来の財政に繋がることに対しては
金を注いだようだ。実際には百万本までには到達しなかったようだが、農地開発により
およそ33年後には米の石高は約23万石ぐらいだから、15万石の表高を上回る数値が
出ているので、結果としては成果が出たようだ。

米沢鯉お鷹ぽっぽ

新産業の開発にも力を入れた
3は現在の小野川温泉地帯で塩を精製しり、中津川でとれた火打石などは江戸で売却したり
墨・硯(すずり)、米織物の染料となる藍玉や陶焼場(すえやき)なども開いた。
米沢に鯉なども持ち込み育てたり、下級武士の家庭では生活が苦しいので内職として
笹谷一刀彫・相良人形などを作られせ、少しでも収入が入るように推奨した。

米織物の工場を自らの藩に作った
4の米織物の工場については、米沢では麻織物が中心であり、あくまで原料生産までしか
行っていなかった。そこで自分らの藩で織物工場を造ることで、儲けを増やそうと考えた。
越後松山から職人2人を招き、婦女子らに織物技術を継承させ
農民の女子を雇い、蚕を育成し織物を織る工場を造った。

普門院の赤門
鷹山公が恩師・細井平洲が3度目の米沢来訪の際に出迎え、再開を果たした普門院の赤門。

生きた学問の習得と優秀な人材育成
5は優秀な人材育成も必要だと儒学者・細井平洲(へいしゅう)を江戸から米沢に招き
学問を指導して貰った。米沢藩にも儒学者はいたが、鷹山公は役に立たない学問を身に付けても
意味が無いと考え、役に立つ学問が必要だと細井平洲先生に熱意による説得で頼んだようだ。

開講まもない間は、白子神社の隣にあった松桜館(しょうおうかん)で講義していたが
安永5年(1776)4月17日に藩の学校・興譲館(こうじょうかん)ができ、そこに何度か米沢に
訪れては、学問を教え家柄にとらわれない優秀な人材を作った。
興譲館での成績が優秀者には賞酒を与えたり、定期的に題を与え作詩なども行っていた。

町人や農民の意見の把握
6は上書箱と呼ばれる意見を入れる箱を設置し、誰でも自由に意見を書くことを許した。
毎月2回箱を開け、殿様自ら内容を眺め広く民意を把握し、良い意見は取り入れたのだ。
さらに今までは公開しなかったが、藩の財政支出を領民に公開し
共に財政の建て直しを考えたという訳だ。

白子神社鷹山公誓詞
白子神社と鷹山公誓詞の碑

神仏を尊い、強く願い出た
7は米沢藩は春先にかけて雨が降らない時期が続き、農作物への被害を心配し
地上から559mに鎮座する愛宕神社へ自ら登り、雨乞いの祈願をしたと伝わる。
最初は祈願しても振らなかったが、鷹山公は竹俣・色部を連れて再度訪れ祈願したら
雨が降ったのだと伝わる。

春日神社や白子神社では、誓詞を奉献するなど密かに行っていた。
大飢饉による凶作では、お豊の方と一緒に白子神社へ訪れ祈願し、城内の御堂では
2夜3日の断食をして神仏に願ったようだ。

鷹山公は早めに隠居し、影ながら米沢藩を支えた


伝国の辞

と、まぁ鷹山公だけの力ではなく、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政、上杉重定といった人材による
サポートもあってのことで米沢藩が変わった訳だが、一々説明してはキリが無いし
文章が長くなるのでそれについては、触れないことにする。

家督を譲り伝国の辞を贈る
それで鷹山公は35歳の若さで隠居し、家督を治広に譲った。その時に上の伝国の辞と呼ばれる
国を治めるにあたっての心得を贈った。他には
『受次(うけつぎ)て国の司(つかさ)の身となれば 忘るまじきは 民の父母』
『なせばなる なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』
と言った言葉も残している。

餐霞館
家督を譲ってからは餐霞館(さんかかん)のあった場所で38年間館に住みサポート役に回った。

隠居して影から藩を支えた
もっとも早く隠居したのは、殿様の身分では身動きが取れず、財政回復に集中できないので
早めに家督を譲った説や、幕府によりお手伝い金として城造営の負担を命じられるのは
必須とばかりに隠居したのではなかろうか?など色々と説が有り、よく分からない。
隠居後は米沢藩主・10代治広、11代斉定の政治の補助や指導をして影ながら支えた。

ウコギの垣根ウコギ

カテモノを作成する
隠居後は、寛政4年(1792)には本草学者・佐藤中陵(ちゅうりょう)を米沢の餐霞館に招き
薬草園を作る技術や知識を習った。これは飢饉による被害を防ごうと、食べれる食物を
どうやって食べれるのか?や、どういった形なのかを図で詳細にまとめ本に記し
『かてもの』と呼ばれる本を領内に配布した。

直江兼続が持ち込んだウコギを始め、ツクシ・コゴミ・ワラビ・フキ・ゼンマイといった山菜など
84種ほど記載し、魚や肉の保存方法や味噌の作りかたなど、凶作に供えた内容。
米沢藩は飢饉時には酒田から米を買い、粥を配ったりして他の藩と比べると餓死者は
他の藩の半分程度と少なかったようだ。米の値段による騒動なども起きていることから
身近な野草で飢えを凌げるように対策を取ったのだろう。


質素倹約だった上杉鷹山公の生活ぶり
大倹約令を掲げているので、鷹山公が米沢に初の入部をした祝いの場においても
鷹山公の言いつけで豪華な料理は取り止めになり、スルメや赤飯など質素な物での宴会に
変わり、あらゆる贅沢を禁じた。

朝は粥2膳と香の物、昼と夕食は一汁一菜や干し物などの軽い食事で、家督を継いで
すぐに自らの仕切料1500両を209両にまで減らし、隠居後も209両で通した。
衣類に至っては下着までも含め、全て木綿製の衣類で高価な絹衣は身に付けなかった。
その暮らしは当時の下級武士以下の生活と言われ、生涯自らが藩の手本となったのだ。

死の1ヶ月前では鷹山公の側近の者が体調を気遣い、ご馳走を出したが一切豪華な物には
箸を付けずソバやそうめん、豆腐など質素な食事しか食べなかったそうだ。
小姓の顔色が悪いのに気付けば、蔵王の高湯・蔵王温泉への湯治をすすめたり
お膳部の不調法を自らかばうなど、人に対する思いやりもあったとのこと。

米沢の側室・お豊の方の死から4ヶ月後に、病床であった鷹山公も文政5年(1822)
3月12日の早朝に、72歳の生涯をとげた。

上杉鷹山の歴史年表


年代年齢内容
175107月20日、高鍋藩主秋月家の二男として江戸の一本松邸で生まれる。
17599米沢藩主・上杉重定の養子に内定する。
176010養子縁組により時期米沢藩主に決定する。直丸勝興と改名。
一本松邸から上杉家桜田邸へ移る。
176313竹俣当綱、木村高広、莅戸善政、佐藤文四郎などを近臣にする。
1766167月に元服し、治憲と改名する。
176717藁科松伯が治憲の側医になる。
9月に大倹約を実行し、自らの生活費を十分の一に押さえた。
176919上杉重定の長女・幸姫と結婚。8月24日に藁科松伯が亡くなる。
10月27日に米沢へ初入国。
1770204代藩主綱憲の子の式部勝延の娘・お久野(お豊)を側室にする。
1771215月に儒学者・細井平洲が初めて米沢に来る。
6月5日に旱魃のため、愛宕神社で雨乞いの祈願を行う。
1772223月26日に遠山村で籍田の礼を行う。
江戸大火により、江戸藩邸が燃えたので江戸に木材を送る。
1773236月27日に七家騒動が起こり、首謀者・藁科立沢を処刑する。
177525桑・楮・漆を各百万本植える計画し植立を始める。
1776264月17日に学問所・興譲館を設立。細井平洲が2度目の米沢下向。
重定の子・治広を次期藩主と決める。お豊の方に長男・直丸が生まれる。
1782323月9日に正室・幸姫が30歳で病死する。奉行・竹俣当綱失脚。
治広が尾張大納言宗睦の娘・純姫(すみひめ)と結婚する。
1785352月6日に隠居し、伝国の辞を送り養子の治広が第10代米沢藩主
となる。隠居先は三の丸にある餐霞館(さんかかん)。
1791411月に莅戸善政を再勤させ中老に任命する。
上書箱の設置。藩政費用を半分にして財政再建に取り組み
ゆるんだ改革を改めた。
179343竹俣当綱が65歳で死去。シイタケ栽培や瀬戸焼を始める。
1794441月5日に長男・直丸(顕孝)が19歳で死去。
莅戸善政が奉行職をまかされる。黒井堰の工事が始まる。
179646細井平洲が三度目の米沢下向。
神保蘭室を興譲館の督学に任命する。
179747黒井堰完成。養蚕を始める。
1798483月26日に上杉重定が79歳で死去。
1801516月29日に細井平洲が74歳で死去。
180252かてものを刊行する。名を鷹山と改名。
18035312月25日に莅戸善政が69歳で死去。
180656養蚕手引を刊行。
180757黒井堰復旧工事落成。
1818687月に旱魃のため、春日・白子の両神社で雨乞いの祈願。
飯豊山の穴堰の工事が20年かけて完成。
18217111月17日に、鷹山の側室・お豊の方が81歳で死去。
1822723月12日に上杉鷹山が72歳で死去。
9月14日に治広が59歳で死去。
1826-国の借金のほとんどを返済する。
1872-明治5年に上杉鷹山を藩祖・謙信と共に上杉神社で祀る。
1902-上杉鷹山を松ヶ岬神社の方に祀る。
1908-9月に従三位(じゅうさんみ)を追贈される。



記事のコメント

戦国武将よりも鷹山公
混迷する現代において、戦国時代の武将等が映画やドラマでもてはやされるが、本当の英雄は鷹山公のような人ではないだろうかと思う。戦国時代の武将達はどれだけ多くの人を殺したかで評価されているが、鷹山公は改革によって多くの人命を救ったわけだから、現代においてもっと評価されるべき人物だと思います。
今も残る至言の数々
kennedy大統領にも評価された鷹山公の教え、いま又騒がしい消費税増税の論議、霞が関が率先して無駄の排除に努めることが第一だと鷹山公の説、時代は変わってもやることは同じ。
鷹山公は民主主義の先駆者
鷹山公が伝国の辞を書いたのは何とフランス革命より前の事である。
西洋で民主主義の先駆の事件が起きる前に封建制国家だった日本に民主主義的な思想を掲げた為政者が居たことが凄いのである。
更に鷹山公の遺した「かてもの」は昭和10年代後半の戦時下の食糧難の時にも活躍し米沢市民を救ったという。
まさに200年以上にわたって米沢市民を護っているのである。
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