山形観光旅行記

旅人の天晴れ『恵日山法泉寺と庭園』の話


法泉寺
▲米沢市にある恵日山法泉寺(えにちさん ほうせんじ)・臨済宗の様子。

掘立川
河原沿いにある歴史ある寺
あれは確か、そうそう春の時だったかな。
米沢城・上杉神社から車で約10分ぐらいの
距離にある法泉寺を訪れた。

側には掘立川が流れ文殊橋が架けられてる。
道路を挟んで恵日山法泉寺と庭園が
分かれており、妙な所に道路を通したものだ。
周りは静かで、居るのは庭師と私ぐらいか~
             ▲掘立川

法泉寺法泉寺

法泉寺の歴史
して、法泉寺の歴史についてだが、元和4年(1618)に創建された寺で上杉家2代目・上杉景勝
開基とある。建てられた当時は5千坪ほどある大寺院で、名前も禅林寺という名称だった。
開山は九山宗用(きゅうざんそうそう)。これは直江兼続が会津の興徳寺にいた九山和尚を
高く評価し、資金を与え足利学校で学ばせた。

その後、上杉景勝の子・定勝の学問師範として遇し、直江兼続と九山和尚が蓄えた本を
この地に納め、禅林文庫という学問所を開いた。
直江兼続は豊臣秀吉の命により、朝鮮へ出兵している際にも本を調達していたらしく
それも納めていた。つまり禅林文庫とは今で言う図書館のようなものだ。

上杉景勝が前田慶次郎を見て、学者の直江兼続とは気が合うようだ。と言っていたことからすると
兼続は基本的に本を読んで、学ぶのが好きな性格だったのかも・・・。
それで慶安元年(1648)に4代・上杉綱勝が、禅林文庫の鎮守として文殊堂を建てた。
元禄3年(1690)に5代・上杉綱憲の命により、禅林寺から法泉寺と改称したようだ。

上杉景勝公三百五十年諱供羪碑

供養碑と掘立川について
掘立川の流れの音を聞きながら、法泉寺の側には上杉景勝公三百五十年諱供羪碑と書かれた
碑が建っていました。いわゆる戦没者への供養碑というやつですね。

あ、そうそう掘立川については、直江兼続が祈ってた松川の上流にある龍師火帝の碑のある
場所から、猿尾堰(さるおぜき)で水を引いている。またずいぶん遠くまで引いているのだな~
この水は田畑を潤す水としての利用や、堀の要素を兼ね供えたもので、水を堰き止めたりして
敵の侵入を防ぐ役割も果たしていた川です。まさに計画的に作られた無駄の無い構造ですね。


法泉寺庭園について
法泉寺から道路を挟んで手前の方には、文殊堂と庭園があります。
米沢市内の町中と比べると、こちらは緑が生い茂り何とも気分が良いものだ。

ここは米沢三名園の一つとして数えられ、鷹山公詩会の庭園として知られている。
立派な庭園ではあるが、昭和初期になると境内を貫通する新道が切られたのだとか。
それで庭園も縮小したようだ。つまりアレか!法泉寺と文殊堂の道というのは
実は道がストレートに繋がっていたのかもしれませんな。ずいぶん妙だとは思っていたが・・・。

米沢三名園の法泉寺庭園
▲法泉寺庭園


文殊堂について
奥には文殊堂があり、側には聖堂があった。文殊堂については、少し前述した通り
慶安元年(1648)に禅林文庫の鎮守として建立されたが、一度火事で消失してしまったのだそうだ。
それで今ある文殊堂は、昭和5年に再建されたもの。
聖堂の方は孔子を祀ったもので、後に上杉鷹山公により先聖殿と改称されたそうな。


▲画像クリックで拡大表示可能▲

ん!?絵が飾ってある
文殊堂と言えば、文殊様を祀っとるのだから知恵の神ということか~
と想いながらもボーッと側面を眺めていたら、2枚の絵が飾られていた。
おやっ!?これは高畠町の亀岡文殊堂に飾ってあったのと似ているな。
こちらも外に飾られてあるので風化が激しいものだが、何か描かれておるようじゃのぅ。
こういった絵はいずれは消えて見えなくなるから、案外希少価値が高かったりするんだろうか・・・

よく観察して見ると昭和11年と書いてあるように見えるな。つまり再建後しばらく経過して
奉納された絵ということか。どちらも一体何をしているのかが、よく分からんな~
下のやつは風化が激しくてサッパリだ。達成と書いてあるから、何か縁起が良さそうか。

法泉寺庭園の入口には白い花が無数に散っており、庭園の松の木が立派でした。


▲法泉寺の動画



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