場所名 | 内容 |
![]() 松岬神社(まつがさき) |
伝国の杜の手前にある神社で、祭神は上杉景勝、直江兼続 上杉鷹山、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政の6柱を祭神としている 神社。上杉鷹山公以降の名前については、米沢藩が貧乏だった 時期に藩を支えた方々です。松岬公園の側にある神社です。 |
![]() 米沢城跡(よねざわ) |
現在の米沢城の本丸跡には、上杉謙信公を祭神としている 上杉神社が建っている。上杉景勝が会津120万石の城主だった頃に 直江兼続は米沢をまかせられ、米沢城の城主だった。 関ヶ原合戦後は、会津120万石から米沢30万石に減封されたため 米沢城は兼続の上司の上杉景勝へ返還された。 参考記事:米沢城・上杉神社 |
![]() 稽照殿(けいしょうでん) |
上杉神社の宝物館であり、上杉神社の隣にある建物です。 中には直江兼続所用の愛の前立てや、上杉家に伝わる甲冑や 刀剣類、衣裳や絵画などがたくさん納められています。 休館日:12~3月下旬頃まで。1月1~3日や、上杉雪灯篭まつりの 期間は別だが、冬の期間は基本的に予約をしないと入れません。 開閉時間:9:00~16:00 電話:0238-22-3189 一般:400円 |
![]() 伝国の杜(でんごくのもり) |
米沢市上杉博物館では上杉家の文書や上杉本洛中洛外図屏風 などが多数あり、現在(2009年)では天地人博2009が開かれており 大河ドラマ天地人で使用された小道具を多数展示している。 開閉時間:9:00~17:00 電話:0238-26-8001 一般:700円 休館日:4~11月の毎月第4水曜日、12~3月の毎週月曜日 |
![]() 直江屋敷跡 |
直江兼続が生きていた当時は、この周辺あたりに兼続の屋敷が 建っていたとのこと。 現在は看板のみを残す場所で、民家が建っていて昔の面影を 見ることは無い。場所は伝国の杜の裏側の道路を挟んだ所にある。 |
![]() 春日山 林泉寺 |
直江兼続とお船のお墓がある。他には武田信清などの墓もあり 上杉家の重臣達の墓も多数ある。米沢三名園の一つがある。 開閉時間:9:00~17:00 12月~3月は要予約。 入場料:お墓は100円。林泉寺の堂内は300円。 参考記事:春日山 林泉寺 |
![]() 宮坂考古館(みやさか) |
直江兼続が長谷堂城合戦で着用した、梵字で書かれた愛の前立て 前田慶次や上杉謙信などの甲冑が展示され、まさに圧巻。 別館には大阪冬の陣で活躍した火縄銃が展示されている。 開閉時間:10:00~17:00(10~3月は16:00まで) 休館日:月曜日、祝祭日の次の日 一般:300円 |
![]() 直江石堤 |
現在では眺めおっとりとした公園だが、当時の直江兼続がいた頃は 大雨が降ると松川が反乱し、城下町は洪水の被害を受けたので 自ら赤崩山に登り、川の状況を観察し堤防を築いた。 近くには蛇土手と呼ばれる、石を積み上げた堤防が現在も残る。 参考記事:直江石堤 |
![]() 龍師火帝の碑(りょうしかてい) |
直江石堤から上流の方にある碑で、龍師火帝の文字が刻まれてる。 これは直江兼続が水と火の神に祈った碑で、米沢の城下町を 洪水や旱魃の被害を防ぐために建てた碑です。 ここから水を引いて、田畑を潤す水や城の堀の水を調達している。 参考記事:龍師火帝の碑 |
![]() 芳泉町(ほうせん)武家屋敷 |
現在も武家屋敷が数件ほど残っており、ウコギが植えられている。 兼続は下級武士をこの地に住まわせ、松川が洪水で 反乱してしまった場合に、すぐに対処しやすいよう配置した。 ウコギを米沢に初めて持ち込んだのも直江兼続です。 参考記事:米沢市芳泉町の武家屋敷 |
![]() 法泉寺(ほうせんじ) |
上杉景勝と直江兼続が創建した神社で、当時は禅林寺と呼んでた。 現在はもう無いが、九山和尚を招き禅林文庫という学問所があった。 兼続は朝鮮出兵の時に、戦の合間に中国で本を収集し 禅林文庫に納めていた。 参考記事:法泉寺 |
![]() 西明寺(さいみょうじ) |
越後から米沢へ移封にともない移ってきた神社で ここには直江兼続が鷹狩りの際に訪れ読んだと伝わる 漢詩があり、現在もその漢詩の内容が石碑に刻まれている。 参考記事:西明寺 |
![]() 東源寺(とうげんじ) |
上杉家の移封にともない会津・米沢と移転してきた。 直江兼続を祀るために伽藍の建物を建立し 兼続とお船の嫡子・平八景明の位牌を祀っている。 五穀豊穣を祈願し、境内には五百体の羅漢像がある。 |
![]() 白布温泉(しらぶ) |
直江兼続はこの高湯で、江州国友村と泉州堺から鉄砲鍛冶職人 を招き、ここで火縄銃を作る工場を建て大量に鉄砲を作っていた。 現在では、直江城州公鉄砲鍛造遺跡の碑の記念碑だけが残る。 参考記事:白布温泉 |
場所名 | 内容 |
![]() 長谷堂城跡(はせどう) |
奥羽の関ヶ原合戦とも呼ばれる戦いで、上杉軍率いる直江兼続と 山形城主の最上義光とが争い、両者とも多くの武将が亡くなった。 上杉家、最上家共に歴史ががらりと変わった場所。 参考記事:長谷堂城跡、長谷堂城合戦 |
![]() 畑谷城跡(はたや) |
直江兼続が率いる本部隊が、長谷堂城を攻める前に落城させた城。 畑谷城にいた江口光清は少ない兵で勇猛果敢に戦ったが 人数に差がありすぎて、上杉軍にわずか2時間で攻め落とされた。 参考記事:畑谷城 |
![]() 最上義光歴史館 |
山形城(霞城公園)の東大手門の近くに建てられ、長谷堂城や 畑谷城など、上杉軍と最上軍が激しく争った内容を詳しく学べる。 開館時間:9:00~16:30 休館日:月曜日、12月29日~1月3日 一般:300円 毎週土曜日は小・中学生は無料。 参考記事:最上義光歴史館 |
![]() 富神山(とかみ) |
上杉軍を率いる直江兼続は、この富神山の山頂から山形城を 眺めて最上軍の状況を知ろうとしたが、霧が邪魔して見えなかった。 10日間待ったが霧は晴れず、そのため山形城は霞ヶ城 (霞城:かじょう)と呼ばれる由来になったと伝わる。 兼続は関ヶ原で西軍が敗れたと知ると、全軍撤退を命じた。 |
![]() 熊野大社 |
日本三熊野の一つで南陽市にある。屋根の造りが特徴的だ。 慶長9年の熊野宮建建棟札には『大旦那直江山城守』の 記録が残っている。兼続は拝殿を改修。伊達政宗にも安堵された。 参考記事:熊野大社 |
![]() 亀岡文殊堂 |
上杉家が会津120万石から米沢30万石に移封され 苦しい時期に直江兼続は家臣らをここに集め、連歌を開いた。 前田慶次郎や兼続の弟・大国実頼などの和歌なども 残っており、寺の宝として蔵に納めてある。 参考記事:亀岡文殊 |
![]() 鮭延城跡(さけのべ) |
真室川町にある城跡で、小高い山城。現在は本丸跡には 石碑だけが残り、眺めの良い場所だけとなっている。 長谷堂城合戦では、上杉軍の大軍に少ない手勢で攻撃をしかけ 直江兼続にその勇敢さは「信玄、謙信にも覚えなし」 と言われた名将・鮭延越前守秀綱の居城。 参考記事:鮭延城 |
![]() 出羽三山歴史博物館 |
庄内地方にある羽黒山頂にある資料館には 直江兼続が祓川橋の鉄擬宝珠を奉納した物が残っている。 上杉家が会津120万石の時に奉納された鉄の擬宝珠(ぎぼし)。 開閉時間:8:30~16:30 休館日:11月下旬~4月中旬 入館料:大人200円 参考記事:羽黒山 |
![]() 總宮神社(そうみや) |
長井市にある神社で、直江兼続が山形の最上軍の支城・畑谷城を 襲う前に戦勝祈願を行ったと伝わる神社。 総宮神社の宝物殿には、兼続が奉納した刀剣や、兼続のの家来が である青木丹波守が始めた、長井黒獅子の獅子頭などがある。 外には兼続が手植えしたと伝わる、直江杉が現在も数本残っている。 参考記事:総宮神社 |
![]() 朝日軍道 |
長井市の草岡から鶴岡市の朝日村を結ぶ約60kmの山道で 飛び地になっている庄内へ荷物を運搬する際に 最上領土を越えなければならなかったので山を切り開いた。 慶長出羽合戦で上杉軍の主力部隊が、畑谷城へ攻め行った時も この朝日軍道を通り、最上領土へ侵入した。 参考記事:朝日軍道 |
![]() 御楯稲荷神社 |
白鷹町の荒砥城跡にある御楯稲荷神社では、兼続による改修や 行われたと伝わり、畑谷城へ出兵する前は荒砥城の神社で 戦勝祈願を行ったとも伝わる。 兼続は狐越街道で道に迷っていると、白い狐が現れ道案内を してくれたお陰で、無事に畑谷城へ到着できたという逸話がある。 参考記事:荒砥城跡 |
![]() 直江山城守本陣跡 |
山形市長谷堂のすげさわの丘にある直江兼続が敷いた本陣跡。 長谷堂城から近い距離に本陣を置き、半月に渡り最上家と合戦。 上杉勢はここを拠点に長谷堂城を約2~4万の兵で囲み、 総攻撃を何度か仕掛けた。 参考記事:直江山城守本陣跡 |