上杉家歴代の墓所がずらりと並ぶ上杉家御廟所

▲11代・上杉治廣公側から撮影した
上杉家御廟所(ごびょうしょ)の様子
- ・場所:山形県米沢市御廟1丁目5番~30
- ・料金:一般200円、大学・高校生150円、小・中学生100円
- ・駐車場:上杉家御廟所の入口手前に第一・第二駐車場有り(無料)
- ・米沢市の名物・特産品:米沢牛、米沢鯉、舘山りんご、うこぎ、雪菜、織物、笹野一刀彫
- ・宿泊先:米沢市格安宿泊ホテル旅館

国指定史跡 米沢藩主上杉家墓所
この横一列に並ぶ家のような建物は
上杉家歴代のお墓であり御廟、もしくは
御霊屋(おたまや)と呼ばれている。
昔と比べ若干改変の跡が残るが
江戸時代大名墓所の代表的な形を残し
大名の墓制を知る上で重要な跡である。
大名の墓がこれだけ整っているのは珍しい。
▲上杉家御廟所の入口
上杉家御廟所に植えられた杉の木について
上杉家の家紋の入った門をくぐると、多くの杉が建ち並んでいる。この杉は寄付金により
植えられた杉の木のようだ。当時の杉の木などは、御廟守や御廟番により守られてきたが
明治以降になると、戦時中や戦時後に木造船・進駐軍関係・中学建築用に伐採され
昔の面影は一部を留めて無くなったようだ。

中央に上杉謙信公のお墓がある
この上杉家の旗の奥にある廟屋が
上杉謙信ので
あとは上の墓所名通りの配置になっている。
廟屋は上杉家古来の質実剛健の家風を現わし
何の装飾も無いが、雪風に強い造りになってる。
それぞれ造った時代が異なるため
建築様式や用材など異なっているが
実際に目視してみると、どれも同じに見える。
上杉謙信の墓所の行方


何度か移されこの場で眠る
現在ではこの場所に墓所が鎮座した訳だが
その以前では何度か移された。
天正6年(1578)3月13日に上杉謙信が
49歳の時に、越後国春日山城で死去すると
遺体に甲冑を着せ棺に治め、春日山城内に
ある不識庵に埋葬されたと記録がある。
▲上杉謙信

▲現在も米沢城内に残されている、上杉謙信祠堂跡『御堂(みどう)』
現在も米沢城内に残る上杉謙信祠堂跡
その後2代目・上杉景勝が豊臣秀吉の命により、慶長3年に会津若松・慶長6年の関ヶ原合戦後に
米沢に転封された時に、遺骨も越後→会津→米沢城本丸の南東にある上杉謙信祠堂で祀られた。
御堂で祀られていた時は、遺骨の左右には善光寺如来尊と泥足毘沙門天像が置かれ
その後歴代藩主の位牌なども祀り、神聖な場所とされてきた。
明治5年に謙信と鷹山を合祀した
上杉神社が創建された時に、遺骨は上杉家御廟所へ移された。
廟屋と八海山法音寺について

火葬や建物の違いについて
もともと遺体は火葬してきたが、10代の
上杉鷹山公の時代になると、親を火葬にするに忍びない
として、それ以降は土葬するようになった。
廟屋は上杉謙信は流造、景勝以降の火葬の
場合は入母屋造り、土葬は宝造りとして
それぞれ建物が違うようだ。尚、
上杉景勝の
遺骨は、紀州高野山の清浄心院に治めてある。
▲上杉鷹山公(治憲)
八海山法音寺
上杉家御廟所の入口の門手前には八海山法音寺(真言宗)があるが、こちらも建立の歴史が古く
越後国(新潟県南魚沼郡)に建立された寺であるが、上杉藩が米沢移封の際に米沢城の二の丸に
建立したが、明治3年(1870)8月に、この地に建てられた法音寺です。
ご本尊は大日如来尊で、上杉歴代藩主の位牌、善光寺如来尊、泥足毘沙門天像、菅谷不動尊像
金銅舎利塔、密教宝具の金銅五鈷鈴・金銅五鈷杵といった県文化財が安置されている。
上杉家御廟所への行き方は、米沢城から国道121号の道路へ行くと分かりやすい。
看板整備が整っているので、現地周辺へ到着すると上杉家墓所行きの看板が見付かるだろう。
米沢城から歩くと15分ぐらい掛かるのかな。
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