山形観光旅行記

旅人の天晴れ『首なし地蔵堂と修理塚、最上家』の話


首なし地蔵堂・修理塚
▲鶴岡市の下山添にある、最上義康公と従者の供養地・修理塚と首なし地蔵堂

天澤寺
最上義康と従者が首を跳ねられた地
加藤清正と丸岡城で書いたが
丸岡の天澤寺の和尚に歴史を学び
そして最上義光の嫡男・義康と従者が
暗殺された場所を教わった。

現地へ到着すると、周りはひっそりとし
民家が建ち並び、近くには公園とお寺
畑が見える静かな景色也。
         ▲天澤寺(てんたくじ)

首なし地蔵堂・修理塚首なし地蔵堂・修理塚

なぜ最上義康(修理大夫義康)は暗殺されたのか?
最上義康と言えば父・最上義光の右腕でもあり、長谷堂城合戦で宮城県の伊達政宗がいる
北ノ目城へ援軍要請に行かせるほど、重役を任せられる信頼感があった。
それで最上義光が家督を譲る際に、最上軍の家臣らは義康と家親のどちからかと口論となる始末。

家親は江戸で徳川家康の近習をしており、家康は家親を最上家の家督を継いでほしかったようだが
山形ではやはり最上義光の手足となり、最上家を支えた義康へ継がせるべきだと意見が割れた。

駿河守家親に武が上がる
義康公は家督を譲らないのを恨み自害されようとしたなど、義康反グループが義光に
告げ口したなど、色々と謎が多く不明瞭な点が多いが、結局は家親に家督を譲ったようだ。
最上義光は義康へ高野山に行き出家し、父母の菩提を弔うように命じられ
わずか数十人の従者を連れて山形城を出て行った。

首なし地蔵堂・修理塚

最上義康の最後
それで義康一行が月山を越え、庄内丸岡の下山添を通りかかると突然鉄砲で乱射され落馬。
そして慶長8年(1603)8月16日、義康が29歳の時に義康と従者達はそこで首を跳ねられた。

犯人は下対馬守の家来にあたる、戸井半左衛門らのグループによる暗殺であると察せられ
義康がいると自分らに不都合が出るため、暗殺したと推測されている。
謎が多い事件だが、結果としては義康公はこの地で暗殺されたのは事実のようだ。

一夜にして首が飛んだ地蔵
この地に住む村人達は、修理大夫義康(しゅりのだいぶよしやす)と従者を憐れみ
この場所を『修理塚』と名付け、手厚く葬り赤い腹巻を付けた地蔵2体を安置し供養した。
が、一夜にして地蔵の首が折れたと伝わる。

その後、何度か首を据えても首が落ちるので『首なし地蔵』と呼ばれている。
毎年4月24日には、修理塚地蔵様供養のお経をあげ、その日だけ首なし地蔵堂が開かれるそうだ。
400年後経過した現在でも地域の住民により手厚く供養されています。


▲修理塚と首なし地蔵堂の動画



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