加藤清正と忠廣、里見家が眠る丸岡天澤寺


加藤清正の墳墓
▲鶴岡市の天澤寺にある、虎退治で有名な加藤清正の墳墓(五輪塔)

  • ・場所:山形県鶴岡市丸岡字町の内36(天澤寺)

  • ・イベント:7月下旬の土・日曜日に清正公大祭お逮夜がある。

  • ・駐車場:丸岡城跡に入る少し手前の方に有り(無料)

  • ・鶴岡市の名物・特産品:だだちゃ豆、寒鱈汁(かんだらじる)、どんがら汁、からからせんべい
     サクランボ、切山椒(きりさんしょう)、庄内柿、庄内米、麦きり

  • ・宿泊先:鶴岡市格安宿泊ホテル・旅館

天澤寺
縁あって天澤寺の和尚に習いを受ける
7月下旬の最終土曜日に黒川能を眺めに
櫛引町へ訪れたが、不思議なことに偶然から偶然が重なり、何故か丸岡城跡へ訪れた。

過去に訪れたことがあるが、天澤寺の入口に到着すると中から和尚が本堂の扉を開け出てきた。そして丸岡の歴史を学び、独自に得た
知識と和尚に習いを受けた知識を記す也。
         ▲天澤寺(てんたくじ)

熊本城大阪城
▲熊本城                          ▲大阪城

加藤清正
知・仁・勇を兼ね備えた加藤清正とは?
永禄5年(1562)に尾張国愛知郷中村で生まれ
幼名は夜叉若、虎之助と名付けられる。
元亀元年(1570)、9歳の時に長浜城で豊臣秀吉の
近習となり、秀吉の子飼いと知られる。

天正4年(1576)に、15歳で元服し170石の旗本に
取り立てられ、天正11年(1583)に賤ヶ岳の合戦で
清正は『賤ヶ岳の七本槍』の一人として活躍し
敵将・山路正国を討ち取り、秀吉から3千石に
加増され虎之助から加藤清正と名のる。

天正16年(1588)、27歳のときに肥後半国の領主
となり、元禄元年(1592)では秀吉の命により
朝鮮出兵に行かされ、大山のふもとに布陣した時
虎と遭遇し、十文字槍で槍先の鎌の部分を
折られながらも虎をしとめたという逸話もある。

地震加藤、関ヶ原合戦でも活躍し、築城の名手
としても知られ熊本城や大阪城、名護屋城など
様々な城の築城に携わる54万石の大大名である。
                                  ▲滋賀県長浜市の豊国神社にある銅像

清正閣
▲清正閣(せいしょうこう)。丸岡の地元では加藤清正公墓碑を愛称で『セイショウコウサマ』と呼ぶ。

どうして山形に加藤清正のお墓があるのか?
熊本から山形ではずいぶん距離があるが、加藤清正が慶長16年(1611)6/24、50歳で死去すると
清正の子・忠廣(忠広)がまだ10歳余りだが家督を継いだ。寛永9年(1632)に幕府から21ヶ条の
詰問状が届き結果的には、肥後54万石の大大名から出羽国庄内へ配流された。
庄内藩主・酒井忠勝から堪忍分として1万石を預かり、加藤家は庄内の丸岡で暮らすことになった。

巫女石と太夫石清正公遺骨壷
▲巫女石と太夫石                     ▲清正公遺骨壷

清正公の遺骨を密かに棒持
それで山形へ配流時に、清正の母子は密かに遺骨を熊本から庄内丸岡へ移させた。
天澤寺の隣に忠廣館が建つと、居館奥庭の太夫石がある所へ加藤清正の遺骨が入った壷を
休めていたが、12年の生活が流れると丸岡大火により忠廣館や天澤寺が全焼。
ほとぼりがさめるまで、五輪塔がある所へ遺骨を移し供養したと伝わる。

伝加藤清正公御兜加藤忠廣の家士のお墓
▲発掘された伝加藤清正公御兜               ▲加藤忠廣の家士のお墓

遺跡の発掘調査による結果
大正10年8月に熊本県からの調査団が訪れ、清正閣の碑石は熊本の特産の石であることが解り
あらゆる観点から見て、加藤清正の墳墓であると推測され、発掘要請をしたが時期早尚と言われ
実現しなかったが、昭和24年9月に遺跡の発掘が行われ、清正閣の地下から鎧一領と
清正公兜と伝えられる総覆輪三十二間筋兜が見付かった。

しかし遺骨は見付からず同年の12月に五輪塔が発掘され、地下からフタの無い壷が発掘され
人骨と思われるものが付着していた。五輪塔地輪の左側に『正保4年12月3日、清地院居士敬白』
の刻字が彫られているのが明らかになり、遺骨の壷は九州肥前弓野焼の壷であると判明した。

天澤寺天澤寺

忠廣と正応院は故郷へ帰ることなく他界
いつかは幕府に許され故郷へ帰れるだろうと期待したが、承応2年(1653)に忠廣公は病に倒れ
22年間故郷の肥後へ帰ることなく酒井摂津守忠当に見とられ54歳で亡くなった。
その2年前は母・正応院が他界。

忠廣は丸岡館で法名 帝光院殿誠覚日源大居士『人間万事唯無常 身似明星西又東
三十六年如一夢 覚来荘内破簾中』と心の内を漢詩で残している。

南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経の碑
清正閣の側には南無妙法蓮華経の碑が置いて
あった。これは清正公は母の影響を受け
熱心な日蓮宗の法華信者なのである。

なので、戦の時に鎧へ付ける旗指物には
『南無妙法蓮華経』と書かれた旗指物を
付けて戦うほどの熱心な信者也。

                                        ▲南無妙法蓮華経

天澤寺の隣にある県史跡の丸岡城跡


丸岡城跡
▲2008年7月下旬の丸岡城跡の百間堀の様子

丸岡城跡丸岡城跡
▲2007年                          ▲2008年

丸岡城跡と天澤寺の見取図
現在も復元中のようだ
2007年に訪れた時は、一体何ができるんだろうな・・・と思い、丸岡城でも建つのか?
と和尚に質問した。

和尚はやっと鶴岡から補助金(確か1千万)が
おりて、百間堀ができたのだと言う。
山形城(霞城公園)のような立派な建物は建たないが、昔と比べ大分変わったと喜んでた。
       ▲画像クリックで拡大表示可能

巫女石・太夫石稲荷神社

清正公大祭お逮夜
現在の丸岡城跡はほとんど何も無い状態で、観光地として見るとイマイチではあるが
加藤家のゆかりの地として保存され、現在も残っていたのが大変嬉しいものだ。
丸岡は加藤清正公へ人目でも会おうと、熊本からやって来る方が多いのだとか。

7月下旬の土曜日には天澤寺で『清正公大祭お逮夜』というイベントを行っているそうだ。
この下旬という曖昧な日なのは、丸岡では7月下旬の最終土曜日は黒川能が行われるため
日時が重ならないように、最終土曜日の一週間前の日に設定しているそうです。
具体的な内容はこちら>>丸岡城跡・加藤清正公墓碑(山形県鶴岡市櫛引地区)

天澤寺里見氏のお墓

上山城の里見氏のお墓もある
他には天澤寺の入口のすぐ隣には、上山城の里見家のお墓がある。
里見氏と言えば直江兼続が率いる上杉軍を慶長出羽合戦と上山の戦いで少人数で撃退し
活躍した武将である。最上義光の嫡子・義康が丸岡で暗殺されると
里見民部の子・権兵衛は義康の従者だったので、疑いをかけられ切腹を命じられる。

里見越前守は最上義光の処置に噴り、上山城を出奔し尾浦城主に逃げ丸岡に移り住んだが
慶長19年1月の最上義光末期の遺言に、後継者の家親へ自分の死後、即座に里見一族を
粛正せよと密かに命じていたそうで、里見越前守、民部父子主従2,3名は
この地で切腹をさせられ果てた。そして天澤寺で供養しているようだ。

近くには修理塚がある
それで和尚に、天澤寺から1.5km離れた場所に下添山という地域に最上義光の嫡男・義康と
従者が首を跳ねられてしまった修理塚と首なし地蔵堂がある場所を教わった。
確か丸岡で義康が暗殺された場があったのは、最上義光歴史館で学んだが
実際にその跡がまだ存在していたのにはさすがに驚いた。

十六大阿羅漢
▲画像クリックで全パターンの十六大阿羅漢が見れます

十六大阿羅漢
上の写真にある里見氏のお墓から天澤寺本堂までの細い道沿には、十六大阿羅漢像が並べて
あり、これが個性的な像でとても面白い!一体ごとに顔の表情が違い、人間身を帯びたその像は
うまくデフォルメされていて、作った方がいかに技能が卓越した方なのかが伺い知れる物であった。

加藤清正公墓碑
▲普段は扉が閉められており、鍵が掛かっている。


鶴岡市丸岡天澤寺の場所・地図


山形県鶴岡市丸岡天澤寺の場所・地図
▲画像クリックで地図拡大表示可能
山形県鶴岡市丸岡周辺の地図 - Yahoo!地図

鶴岡市の丸岡は、鶴岡市内と比べると基本的に田舎な風景であり、国道112号から
鶴岡市内行きと月山行きを結ぶ大きな道路があるのだが、その途中に天澤寺がある。
国道112号沿の道路脇には加藤清正公墓碑行きと、ちょっと大きめの看板があるので
まぁ、見逃さなければ行けるだろう。

駐車場の方は天澤寺から数メートル離れた場所にあり、上の丸岡城跡と天澤寺の見取り図に
駐車の場所が記載されている。4,5台ほど駐車できるほどのスペース(無料)。
また観光ガイドも行っているようで、一人100円で丸岡城の歴史を案内してくれるそうだ。
でも、確か5名とか複数人数での応募からなら利用可能だと記憶している。
ガイド申し込みは、0235-57-2062 丸岡地区受付所(前田商店)に電話すれば良いようだ。

最後に資料を戴き、いくつかの知識を教わった天澤寺の和尚に大変感謝いたします。


▲加藤清正と丸岡城跡の動画



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