上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。



片桐繁雄先生の元で直江兼続と上山の最上軍を学ぶ


片桐繁雄先生
▲上山城の特別展示室で行われた片桐繁雄先生の講演会

片桐繁雄先生
片桐繁雄先生とは?
1933年(昭和8)に、山形市に生まれ
山形大学教育学部を卒業後、長井市・山形市・東根市の小中学校で先生や校長を勤務。

山形市立第二小学校の校長を定年退職すると、1994年(平成6)に(財)最上義光歴史館の局長を務める。1999年に退任し、現在では
上山市の市立図書館の館長をしている。

上山城北天の巨星・最上義光

世界一、最上家に詳しい人
片桐繁雄先生と言えば多くの最上義光に関する本を執筆し、彼以上に最上義光を知る人物は
世界に居ないと言っても、それは過言ではないだろう。
山形の多くの戦国時代の歴史を広く伝えた方なのである。講演会は9月20日の午後2時から
上山城特別展示室で行われました。これはまたと無いチャンスだと思い勉強しに行きました。

最上義光
片桐先生が見る最上義光の人物像とは?
一言でいうと弁慶のような人物だと言っていた。
今では弁慶は義経と供に伝説化しているが
彼が大活躍したという記録が無い。

ある時は坊さんであったり、牛若丸と橋の上で
戦ったり、弁慶の立往生などと逸話が多い。
つまり弁慶という人物は存在したようだが
色々な噂が出て今の弁慶の人物像になっている。
                                     ▲山形城にある最上義光の像

直江兼続に関する、ぶっちゃけ歴史話


直江兼続直江兼続

直江兼続は賢く、残酷で利を求めた人物だった
最初は渡された資料をただ読むだけの、つまらん歴史話になるのかと思っていたが
片桐先生が、これは米沢の人に叩かれるだろうな・・・と言いながらもぶっちゃけてくれました。

安土桃山時代から、江戸初期にかけての最大の学者である藤原惺窩(せいか)という人が
直江兼続のことを奸雄(かんゆう)と称している。
奸雄の『奸』はズル賢い、雄は英雄の『雄』という意味。織田信長ですら奸雄と何故か呼ばれない。
また藤原惺窩は、もし天下が3つあるとするならば、直江兼続はその内の2つを手に入れた男だろう
と言う、それと同時に直江兼続は自分の主君に戦いを進め、主君の義を滅ぼす男だとも言っている。

片桐繁雄先生一般では兼続は豊臣秀吉に可愛がられたと
言うが、太閤記を見ると一文も秀吉との会話が無い。また豊臣の姓が与えられたのは兼続
だけではなく、たくさんいたのだそうだ。

一方、最上義光の方はその太閤記には7箇所ほど名前が出てくる。兼続の名は1回だけ。
何に1回だけ出てきたのかというと、秀吉が亡くなり形見分け際に刀をあげたという時のみ。


形見分けは全員で260~270人ほどいて、最上義光も刀を一本貰ったそうだ。
有名や無名の武将が並ぶ中、兼続の名前は最後の方にチョロと記載されているだけとか。
つまり太閤・豊臣秀吉との接点が薄く、兼続はいかに作られた話が多いということが分かるそうだ。

直江兼続長谷堂城跡

直江兼続は皆殺し好きだった
戦では兼続は畑谷城戦では、撫で斬り(戦闘員以外の女・子供を斬り殺すこと)を命じた。
庄内藤島では庄内の農民が検地に反対をして、1千名の農民が藤島城に立て篭もり抵抗した。
兼続は皆殺しを命じ、農民代表者を引っ張り出し火あぶりにして殺したそうだ。

長谷堂城合戦で敗北すると、上杉軍率いる兼続は谷地城を占領した下次右衛門ら2千人に
敗北したことも告げずに、置き去りにして米沢に逃げた。
直江兼続の歴史一覧を見ると利を求めた人物で、豊臣政権の傘下に居た割りには豊臣秀吉が
亡くなると、上杉家率いる兼続は大阪の陣で全力を出して豊臣政権を滅ぼしたとのこと。

だから今ある綺麗な話は、小説家が史実に基づかないで話を作って書いてしまうのだそうだ。
それが事実だとするならば、愛と義の知将・直江兼続って一体何なんだろう・・・と思うばかりだ。


上杉軍と最上軍による上山の戦い


慶長出羽合戦と上山の戦いの場所・地図
▲画像クリックで地図拡大表示可能
山形県上山市藤吾周辺の地図 - Yahoo!地図

上山城
現在と当時の上山城の違い
上の図は現在の場所に照らし合わせた地図です。一見上山城の位置が違うように見えるのは
現在ある上山城は、二の丸跡に郷土資料館として建築した建物である。

当時は上山城とは呼ばず、高楯城や亀ヶ岡城と
呼ばれていた山城である。
当時の上山は、さらに山で覆われてただろう。
                                      ▲上山城(かみのやま)

慶長5年(1600)に直江兼続率いる上杉軍が、最上軍へ広範囲に渡り戦を仕掛けてきた。
9月13日に畑谷城が落城すると、最上義光が居る山形城(霞城公園)とは目と鼻の先の距離にあり
最上軍は最大の危機を迫られる。山形城はまさに長谷堂城・上山城で持ちこたえている状況化。
その上山での戦いを、片桐先生の元で詳しく学んで来ました。大まかな内容は長谷堂城合戦で。

中山城中山城の石垣
現在の中山城の本丸跡

兵力の差
上山城を狙う上杉軍は、中山城を拠点にして上山城(高楯城)を攻略しようとした。
中山城の兵数は4000で、主将・本村(稲村)造酒丞親盛、横田式部旨俊、清水三河守康徳
が中山城に集結し、9月16日に作戦会議を開く。

その会議で横田は「明日17日は亡日(縁起が悪い日)で、出陣なら18日がよかろう」と言ったが
本村は「味方が亡日なら、敵にとっても亡日だから気にするな」と話し、9月17日に出陣した。
さらに高畠城からは、志賀吉兵衛が兵数1000で柏木峠→楢下→小穴(陣山)から上山を狙う。

一方、上山の最上軍は兵力はわずか500名と言われている。
最上義光の日記によると、上山へは援軍を送っていないと記されている。
犬猿の仲の伊達家に援軍を要請するほどだから、援軍を送る余裕が無かったのだと推測できる。

中山から前川ダム古戦場
▲中山城から前川ダム行きの道のり          ▲古戦場跡の山が続く入口風景

上杉軍の進軍
9月17日に上杉軍が、物見山から松木次右衛門が陣貝(法螺貝)を鳴らすと進軍が始まった。
先陣・本村造酒丞親盛・清水三河守康徳が前川ダムの山間から鍵取山~赤坂上の台へ進軍。
横田式部旨俊・横田洞庵・時田岩瀬らは、通称・火付け備えという建物を燃やしたりと
焼き討ち専門部隊として、川口から高松方面・藤吾方面へ進軍した。

前川ダム周辺前川ダム周辺
前川ダム・首塚周辺の風景。最上軍は傾斜の上から上杉の軍勢を眺めていたのかもしれない。

討取られた大将と逃げる上杉軍
上山の最上軍の草刈志摩守は、上杉軍の先陣が前川ダム周辺へ向かうのを察知すると
兵300人を率いて、鍵取山、沢入り中山という場所で隠れ伏兵戦にでた。
織田信長と今川義元の桶狭間の戦いに似ていて、上杉軍が細い山道で兵が長蛇の列で
軍列が伸びきっている所を、最上軍が襲った。

それで大将の本村造酒丞親盛が討取れてしまった。油断していた上杉軍は混乱し逃げ去った。
越境記によると『さしも猛将なりしかども、身も疲れ馬も弱りけるところへ
大勢せめかかりける間、深田の中へ踏み込み、鎧冑に水しみこみ、自由ならずいたるを見て
肥藤刑部、才伊豆、小穴村の又七などいう、一騎当千の者取り組み、三人して討ち取りける』
と本村造酒丞親盛の戦死の様子が記されている。

清水三河守康徳は20騎の部下に守られ退却した。掛入石で上山兵に襲われるが
中村靱負がそれを防ぎ、その間に中山城へ逃げた。
上杉軍の中では中丸太郎左衛門・平塚清七・万年与左衛門・神成嘉六らは、勇猛果敢に戦い
乱戦により首は取れなかったが、草刈志摩守を鉄砲で倒したそうだ。

上山市・藤吾・川口藤吾の北側から見た現在の風景。道路から右側が赤坂・川口方面、左側が藤吾・小穴

横田軍は農民に襲われながらも撤退
一方、焼き討ちをしていた横田旨俊軍は高松まで進軍したが、戦っている間に後ろを取り巻かれ
川口と中山の境にある栃屋まで退いたところ、上山の地侍や農民がそれを襲った。
最上合戦記によると、一番首の手柄は近内、二番首は川口村の次右衛門と農民らしき名前が
記載さている。火付け大将が討取られ、上杉軍は中山城へ撤退したようだ。

首塚大将塚
▲上杉軍と最上軍を弔った首塚           ▲本村親盛が戦死した大将塚

戦いの終焉
現在の前川ダム・赤坂周辺では上杉軍・最上軍を弔うための首塚や大将塚がある。
上杉軍は683か483名が討死し、捕虜31名だったと伝わる。大将を守りきれず逃げ去り
わずか500名たらずの兵に追われ、上杉軍は恥を残す不本意な戦いだったようだ。

一説には上山城主・里見民部は、戦わず城を明け渡すと言ったが、いざ上杉軍が進軍すると
上山兵が襲ってきたので、油断したという説もあるようだ。
里見民部・同権兵衛らは、長清水から藤吾方面へ出陣し、上杉勢を待ち構えていたようだ。

上山・大将塚
▲現在の大将塚は、草や折れた木々で囲まれ探すのが困難な状況

義姫の直筆で手紙の読み方を教わる


義姫の手紙
▲義姫が伊達の留守政景へ、早急に援軍を要請したときの直筆の手紙

義姫の手紙
義姫のあせりが感じられる手紙
義姫(よしひめ)とは最上義光の妹にあたり
伊達政宗の母である。

畑谷城が落城し最上家の危機になると
最上義光の嫡男・義康が一日中走り続け
北目城の伊達政宗の所へ援軍要請に行った。伊達の軍事会議で、政宗の叔父にあたる
留守政景を援軍に出陣させることを決定した。
     ▲さつさいへ 人々欠 ひ可し=義姫

手紙の読み方と礼儀
実物は岩手県の水沢市立図書館蔵に保存されているそうだが、その時の手紙を使い昔の手紙の
読み方を先生に教わりました。まず手紙はがぎは、字を間違っても良い物だそうな。
なぜなら、自分の馬鹿さが見えるだけであり、相手を恥ずかしめるためでも無いので
自分の学が無く不十分とういだけで、失礼なことでは無いそうだ。

それで手紙に点や丸が無いのは打たないのが礼儀で、相手側から見れば点や丸など
無くとも字ぐらい読めわ!ということで打たない物らしい。
手紙を読むときは一番右端から読むのではなく、①から最後の行まで読み
それから一番右端の行へ戻って読むそうです。
宛先には『せつさい』。せつさい=留守政景。手紙では”はやくはやく”来てくれと書いてある。

片桐繁雄先生に教えを受けた感想
全体的な感想からすると時間の都合上、最上びいきな話の展開で、大河ドラマ天地人
直江兼続が盛り上がっているが、兼続の人物像を真っ向から打ち崩す話の展開だった。
やはり直江兼続とて、黒い歴史はあるのだなと思った。それを臆せずきちんと説明する
片桐先生の度胸には恐れ入った。表面だけ学ぶ歴史は、本当の教育とは言えませんからね。

会場には米沢の方も来ていて、米沢民からすれば耳の痛い話なので、謝りながら話していた。
公演が終了した後には色部家の方々が来ていて、先生に話しかけていたので、これは気まずい
光景だなと思い、暴れたり強く反発するようであれば、これは武士たる者は仲裁に入らねばならぬ
と終始無言でその様子を眺めていたが、むしろ逆だった。

片桐先生が色部家を目にすると即謝り、色部家の方々は先生の話に感激?したのか
ニコニコしながら、とても素晴しい話ありがとうございました!と言うばかりであった。
さらには女性の方が、片桐先生に花束まで手渡していた。
最後に多くの史実と資料で、慶長出羽合戦を学ばせて戴き片桐先生と主催者に大変感謝!
また機会があれば、東根市での戦いを学ばせて戴きたいです。



記事のコメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する


| 山形旅行 - 観光、温泉、名所、宿泊 |




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。