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酒田市に伝わる松山藩荻野流砲術


松山藩荻野流砲術隊
▲酒田市の松山で行われた松山藩荻野流砲術隊の方々

  • ・開催期間:5月1日 10:30 ~12:00 雨天中止

  • ・場所:松山城跡の近くにある生涯学習施設「里仁館」のグラウンド

  • ・駐車場:松山文化伝承館や中山神社辺りに有り(無料)

  • ・酒田市の名物・特産品:庄内米、ただちゃ豆、庄内柿、酒、どんがら汁

  • ・宿泊先:酒田市格安宿泊ホテル旅館


松山藩荻野流砲術
松山藩荻野流砲術とは?
酒田市の松山に伝わる荻野流砲術とは
松山藩歴代藩主の5代目にあたる酒井忠禮
(ただのり)の時代の頃に、その藩士である
山本丈右衛門が大坂玉造の荻野流砲術宗家坂本孫之進に文化4年(1807年)に入門した。

そして翌年に免許を皆伝し、その後松山代官となり、砲術師範を勤めたのが始まりである。
   ▲羽織を着てる人は指揮や太鼓を鳴らす人

松山城跡砲術隊

松山藩荻野流砲術の歴史と活躍した時代
松山藩では足軽組が第一線部隊としていたようで、1隊で20数名でもって組織し物頭が指揮した。
元々足軽組は弓隊として編成されていて4隊あった。
文久3年(1863年)の頃の時代には、幕府に願い出て江戸藩邸内に鉄砲稽古場を建設したいと
伝えその許可がおりたので、従来からいた弓隊は廃止し砲術隊になった。

慶応2年(1866年)の記録によると、砲術隊は竹田川原で度々鉄砲の訓練をしていたようだ。
戊辰戦争の頃になると官軍が新庄から清川に攻め入った。松山藩の兵は慶応4年4月23日に
荒興野のあららぎ山から砲撃し撃退し活躍したようだ。
しかし幕府軍が負け松山藩も消滅すると、砲術隊員も砲術も自然と消えてしまったようだ。

物頭松山藩砲術隊

米沢がきっかけで、現代に蘇る松山藩荻野流砲術
平成2年になると松山町では発掘なども進められ、松山文化伝承館では2丁の古式銃があったため
砲術隊の復活の構想があったようだ。しかしこの銃は実際に使えるかどうか不明だったので
構想だけで終わってしまった。

平成7年になると米沢市で日本古式砲術演武大会が開催され、それを見学して専門家の進めも
あったようで本格的に復活の目処が立った。松山では猟友会に呼びかけ砲撃者を探し
2丁の古式銃や個人所有の銃を整備し、平成9年6月の松山藩時代まつりで実現し蘇った。
現在では火縄銃15丁、大筒1丁、短筒2丁が有り、平成15年に松山町の無形民俗文化財に指定。


松山藩荻野流砲術隊による演武


松山藩砲術

様々な火縄銃を眺めれる!
開演時間になると松山藩荻野流砲術隊が
ぞろぞろと生涯学習施設「里仁館」のグラウンドに長蛇の列で集まり、鉄砲のノウハウを教えながら実演を行った。

天候にも恵まれ、まさに観光にはうってつけの
日となった。近くでよく観察すると火縄銃は大・中・小の鉄砲で、米沢の物とは若干の違いがある。
                                  ▲説明を聞きながら演武が眺めれます

羽織酒井分家の松山家紋
右、四角枠に酢漿草(かたばみ)の家紋。酒井分家・松山の家紋。

酒井家の家紋について
現在ではあの酢漿草の家紋は酒井家の家紋であるが、昔は徳川家の家紋・葵の家紋であった。
松平長親(ながちか)の代に、家臣の酒井忠善が手柄を上げるのを見て、その軍功にあやかろうと
酒井家の葵の家紋を献上させたようだ。そしてその変わりとして酢漿草の紋を授かった。
あの家紋が丸枠に酢漿草模様だと、酒井家本家・鶴岡の家紋になります。

松山藩荻野流砲術隊火縄銃の写真
銃の長さと重厚の太さの違いが見てとれる

米沢の鉄砲隊との違いについて
まず格好を見て米沢の鉄砲隊と違うことは
見て容易に分かるが、他に何か違いはないか
観察すると、玉込めまでは特に違いは無い。

その後は米沢だと準備が整ったら指揮官に
対し手を挙げ準備が整った合図を出すが
松山では手を上げていなかった。つまり指揮官が準備が整ったかどうか判断しているようだ。
   ▲短筒だと片手を台にして射撃するようだ

火縄銃を眺めても松山は、大小異なる大きさの鉄砲で、どちらかというと米沢より近代的な銃だ。
米沢は上杉景勝の頃の代に製造した鉄砲だが、松山は幕末の頃の物が多いんだと思った。

50匁の大筒による発砲


50匁の大筒
▲うおぉー、スゲー松山では50匁の大筒を撃つのかよ!

羽織酒井分家の松山家紋
▲固定台から取り外して持つとあんな感じ。別名・マグロカノン?とかいうあだ名があると言ってた。

松山では50匁の大筒も撃つようだ。話によるとあの大筒は大手門から見つかった火縄銃だそうだ。
大手門と言えば松山城大手門のことを指しているのだと思う。
あの大手門は戊辰戦争後、城は壊しても門だけ残しても謀反の兆しは無いだろうと取り壊しを免れた門である。以後は落雷により消失したが富豪・本間家により再建された松山城大手門である。

米沢上杉鉄砲隊松山鉄砲隊
▲米沢上杉鉄砲隊の銃                ▲松山50匁の大筒

米沢より若干銃口が広いのかな~
一応米沢にも50匁の大筒はあるらしいが、なぜか30匁の雷筒までしか発砲していないのだ。
まさか松山で50匁の大筒を見れるとは思わなかった。大筒の撃ち方は台に固定して打つようだ。
撃った後の反動が大きく、手で持ち撃つのが困難なのだと思われる。
その辺の様子については、動画で斬ってきました。大筒だけ米沢のより若干音が強烈でした。


▲松山藩荻野流砲術の動画


▲50匁の大筒の発砲動画

松山藩荻野流砲術隊の演武の場所・地図


山形酒田市松山町地図と場所
▲画像クリックで地図拡大表示可能
山形県酒田市字新屋敷周辺の地図 - Yahoo!地図

酒田市のイベントでも発砲は行われている
場所に関しては、松山城跡の近くにある里仁館という学校のグラウンドで行われます。
砲術隊は時間になると松山城大手門で準備を整え、グラウンドへやって来るようだった。
駐車場に関しては特に止めれる場所が付近に無かったので、松山文化伝承館や中山神社から
少し登っていった所にある神社?か何かの止めれるスペースがあるので
そこに駐車してもOKとのことでした。

松山藩荻野流砲術は、酒田まつりやイベントなどでも発砲を行っているようでした。
いわゆる町おこしの一環として、米沢の鉄砲隊のようにあちらこちらで発砲しているのだと思った。
松山城跡付近の道が若干せまいので、安全運転で~♪
あと周囲には皇大神社という同名の神社があるようでした。



記事のコメント

松山藩荻野流砲術について
米沢藩古式火縄筒保存会さん、おしひさぶりです。
大変ご参考になりました。

松山藩荻野流砲術隊に関しては、まあそんなところだろう。
とは勘付いてはいました。
されど、ウェブ上でそこまで書いてしまうとアレだし
町興しの一つだから、それについてはあえて何も語らないのですよ(^^


砲術に限らず、各地の観光地も裏事情があるけど
侍なればこそ、相手を責めるよりは立てた方が良いんだと思った。
芽を摘み取るのはやはり罪なことだろうし、
至らない部分があれば、世の流れと天に任すのです。

森重流伝承会の演武の件、おしょうしな。
朝日町にそんな砲術隊があったのですか!
時間的に行けそうか、まだ分かりませんが情報ありがとうございます。
youtubeで動画上がってましたね。あの様に晴れてれば良いのですが。
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