米沢上杉まつりでの上杉鉄砲隊の演武

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米沢上杉まつり・米沢駅前イベントの
上杉鉄砲隊の標的になった時の様子
- ・開催期間:米沢上杉まつり>毎年4月29日~5月3日(入場無料)
- ・場所:米沢城・上杉神社の稽照殿前や、5/3の米沢駅前で発砲。
- ・駐車場:米沢城周辺や臨時駐車場
- ・米沢市の名物・特産品:米沢牛、米沢鯉、舘山りんご、うこぎ、雪菜、織物、笹野一刀彫
- ・宿泊先:米沢市格安宿泊ホテル旅館

米沢上杉まつりの上杉鉄砲隊を観察
米沢上杉まつりでは、上杉鉄砲隊の演武が
見れます。5月3日の米沢駅前の発砲イベントの前に4月29、30日の午前10時頃にも
上杉神社稽照殿の前でも発砲されます。
あれは鉄砲の練習をしているのではなく
米沢上杉まつりの祝いとして毎年祝砲を
上げているのだそうです。
▲上杉神社前での祝砲

火縄銃の発砲に用いる道具について
上杉鉄砲隊が玉込めの最中に使用している道具と発砲の様子を眺めてきた。まずは左の写真の
縄のやつは、火縄と言い材料は竹、木綿、ヒノキなどが主で、竹火縄がもっとも火移りが良い。
しかし年月が経つと火付が劣る物也。他は火移りが劣るが、湿気や乾燥に強いのが特徴である。
右のヒョウタンに火薬が収められているようだ。
▲移動のときの銃の持ち方
普段は右の写真の上杉家の家紋が入った黒い箱に、火薬やら道具をしまっているのだと思った。
理由は黒い箱の横に、4月29、30日分の火薬と記入されていたからだ。
火縄銃は基本的に重いので、持つときの基本は右側の写真のように棒や鉄砲を肩に担ぎ後ろで
交差させてテコの原理で、重さを分散させていた。あれがもっとも効率の良い持ち方なのだろう。
古式火縄銃と上杉鉄砲隊について
- それで見学ついでに色々と聞いてきた。まずあの火縄銃だが慶長9年(1604)の上杉景勝の時代
の時、米沢の白布温泉で鉄砲を作る工場があり、そこで1千丁作られたが時の火縄銃だそうな。
銃の重さはサイズにより違うが約10kgで、鉄砲一丁の値段は何百万単位と言ってた。
火縄銃を打つには、火薬を使用するため危険物取扱の資格が必要。そのため一般の方が
「銃を持たせてくれ」と言われると、上杉鉄砲隊は非常に困るらしい。
現在の上杉鉄砲隊の団員数は、およそ30人余りでその内女性は2人。キャリアは15~25年
辺りが多くあそこにいた女性でも8年とか、そう説明していた方は、キャリアが40年だと言ってた。
銃の撃ち方は数種類あるが、全部の打ち方ができるのは3、4人ぐらいしかいないのだそうだ。
玉の射程距離は実弾だと、50~150mで馬や鎧を着た物を殺すには50m以内で射抜くものだと
伝書があるそうだ。実弾は違法なため、上杉鉄砲隊も実弾で撃った事がないとのこと。
だから米沢だと、火薬の後に白い紙を入れて発砲している。動画でもその様子が観察できた。
上杉鉄砲隊は米沢で行われる祭りやイベントなどで発砲されるが、その30人余りいる団員達と
交代で発砲を行っているようだ。なので上杉神社前では30人も鉄砲隊いないことが理解できる。
米沢の上杉鉄砲隊と稲富流砲術隊とは?


▲上杉鉄砲隊 ▲稲富流砲術隊
米沢には砲術隊が2団体ある
米沢上杉まつりでは、上杉鉄砲隊と稲富流砲術隊(正式名称・米沢藩火縄筒保存会)の
2団体が火縄銃の演武をしている。
上杉鉄砲隊とは上杉神社に事務局を置き、米沢城などで行われるお祭りやイベント・祭礼の日
などに発砲する団体であり、上杉神社周辺でしか発砲しない団体である。
一方、稲富流砲術隊とは宮坂考古館に事務局を置き、米沢上杉まつりの
上杉行列や川中島合戦で発砲している団体である。また稲富流砲術隊は、県外のイベントでも発砲しており
山梨県の石和町の信玄公まつりや、新潟県の南魚沼市の兼続公まつりでもお呼びが掛かっていて
県外のイベントにも出場している団体である。


▲上杉鉄砲隊 ▲稲富流砲術隊
なんで2団体もあるのよ?
一見似ているが、よく観察してみると服装が違うことに気付く。上杉鉄砲隊と稲富流砲術隊との
違いについては、稲富流砲術隊の方は、宮坂考古館の館長がやっていて、上杉鉄砲隊は米沢城
で撃っているというのは米沢の人は大抵知ってたりするが、じゃあ何故2団体に分かれたのか?
と尋ねると皆知らないと言う。そしてその辺の歴史を根堀り葉堀りと調べてみた。
上杉家の鉄砲隊の歴史について

上杉景勝の代から鉄砲隊を多く編成した
上杉謙信の時代の頃の天正3年の軍役帳を
見ると、鉄砲隊の集団の記録がない。
それは
上杉謙信の魅力で書いたが、上杉謙信が鉄砲嫌いか鉄砲のコスト高のため鉄砲隊を編成しなかったのだろうと思う。
鉄砲の集団の記録が如実に伺えるのは
上杉家2代・上杉景勝の代になってからだ。
▲上杉謙信
上杉謙信の代では永禄元年(1558)に、謙信が関東出馬の際に馬廻組の鉄砲上手・高山与太郎
と八町減七郎に段母衣(ほろ)を着せ連れて行ったとの記録がある。

段母衣鉄砲組と百挺鉄砲組
上杉景勝の代の天正14年(1586)の上洛の際に
大夫秀政に命じ岸和田流砲術の達人のもとで
鉄砲の早込めを習得し、その中で鉄砲上手20人を段母衣組(三十人段母衣)を編成したようだ。
その組は度々功をあげるので、褒賞として金の段々筋の母衣を授け段母衣鉄砲組と名付けた。
▲上杉景勝
また百挺鉄砲組という景勝時代に編成された組があり、大阪冬の陣で練りの日の丸の指物と
具足釘貫紋、尖(とがり)笠をかぶり、馬の毛のシロコを見に付け、勲功をたてたようだ。


左の写真の米沢駅前で鉄砲の説明をしていた方が、丸田役ということなのだろう
種子島流の丸田と稲富流の大熊について
- 上杉家で鉄砲大将を命ぜられていたのは、種子島流の丸田と稲富流の大熊の両家だけであった。
種子島流・岸和田流をついでいる丸田九左衛門森盛次は、三百五十石を抱え白布温泉の高湯で
鉄砲千丁を張りたて支配してた。種子島流の流派については、大阪の住片桐左近少軸から習いを
受けたようだ。そして丸田家では代々上杉家の三十匁以上の大筒を取扱う総支配者となった。
一方、稲富流の大熊伝兵衛信次は、直江兼続の近侍として百石で抱えられていた。
大熊は最初は田村流を学んでいたが、上杉景勝の家臣・川田玄藩に命じ、当時播磨にいた
稲富流の祖・稲富伊賀守源祐直へ派遣し学ばせた。
そして奥義を伝授し1639年に大筒組頭となり、丸田と共に上杉家の鉄砲大将となった。
稲富伊賀守源祐直の逸話
稲富流の祖・稲富伊賀守源祐直には逸話があり当時細川家にいた頃、細川忠興(ただおき)が
書斎の庭にいるフクロウがやかましいので、祐直を呼びフクロウを撃ち抜けと言われたそうだ。
祐直は夜になるのを待ち、フクロウが鳴き始めると暗闇の庭の植込みを眺め、持っていた扇で
フクロウの鳴く方向を指し、扇を縁に置きその方角へ向けて鉄砲を放った。
すると木の上からは真っ二つに射抜かれたフクロウが落ちてきたそうな。
砲術が上手だった者に与えられた褒賞について
上杉家の鉄砲隊では、砲術の上手な人には御役筒と称し、役料をつけた。なので鉄砲隊はその
サイズの火縄銃が撃てるように、一生懸命稽古に励んだそうだ。
火縄銃のサイズ | 御役筒・役料 | 人数 |
三十匁筒 | 1俵 | 10人 |
四十匁筒 | 2俵 | 10人 |
五十匁筒 | 2.5俵 | 10人 |
八十匁筒 | 4俵 | 2人 |
百目筒 | 5俵 | 2人 |
また役料の他にも褒賞として特殊な鉢巻も与え、名誉の印としていたようだ。現在の上杉鉄砲隊を
見るに、ほとんどの方が真ん中の紺色ぽい鉢巻の色であった。額部分に装飾されたのもあった。
色も下の表と該当しないので、現在では鉢巻の色で階級が知れるかどうかは不明でした。
火縄銃のサイズ | 鉢巻の色 |
三十匁筒 | 赤鉢巻 |
四十匁筒 | 浅黄鉢巻 |
五十匁筒 | 黒鉢巻 |
八十匁筒 | 赤地に黒の一寸筋の鉢巻 |
百目筒 | 紫鉢巻 |
米沢の火縄銃の雷筒について
- 米沢市では30匁筒の火縄銃を『雷筒』と何故か呼んでいる。
その違いについては、米沢藩火縄筒保存会(稲富流砲術隊)の隊員の方に教わりました。
まず30匁筒ではあるが、実際に使用する火薬の量が他の団体と比較すると
百匁・二百匁筒と同じ量の火薬を使用しているのだそうだ。
現在日本の砲術隊の中で、発砲音が一番大きく轟音と反動が凄いそうだ。
そのため米沢では、30匁筒の火縄銃を雷筒と呼んでいるそうな。
さらに米沢藩火縄筒保存会では、5月5日に愛知県新城市で行われている長篠合戦のぼり祭り
にて150匁・300匁筒の発砲を行っているが、保存会では毎年参加し演武を披露してるそうだ。
米沢で稲富流砲術隊の雷筒による演武は、米沢上杉まつりの川中島合戦で見れます。
その他の火縄銃の雑学について
どの鉄砲隊を眺めても撃つときに「アー!」とか「オー!」とか、気合を入れるかの如く発砲している
方が多いのには理由があり、あれは発砲するときに口を開けてないと耳の鼓膜が破れるからだ。
口を開けていると爆音は耳から通り口へ抜けるのだ。アクション映画の爆発シーンで皆口を開けて
いるのはそのためである。米沢駅前での発砲イベントの話だと、手で耳を押さえるのは
逆効果なのだそうだ。そして鉄砲隊も耳栓などはしていないそうです。
(*実際の戦場では声は出さない。掛声なをどしたら相手に見つかり殺られるから)
『火蓋(ひぶた)を切る』という言葉があるが、あれは火縄銃から来ている言葉です。
意味は試合や戦争・競技などが始まる開始の意味。
火縄に火を付けて発砲する体制に入り、火薬に着火する様を表現していているもの也。
発砲時間と命中率について
動画で眺めていてもスゴイ破壊力ではあることは伺い知れるが、一発を撃つのに時間が
かかりすぎだし、見物者の中には撃ったときの反動で、玉は命中しないだろうと言う方もいる。
それは当然の話であって、深い考えに至っていないように感ずる。そこまで侍は無能ではない。
まず1発撃つのに、確か3分ぐらい時間がかかる。それでは敵に攻め入れられ、首を取られるだろう。
じゃあどうしているのか?というと、昔は何百人単位の鉄砲隊が横に連ね、織田信長が武田の軍を
長篠の戦いで破った時の様に、交代しながら撃つから連射できて、少し命中力の制度が悪くても
横一列で雨の如く撃たれたら、対象者に当たらなくても流れ玉が、横か後ろの敵に当たるだろう。
どこで上杉の火縄銃の演舞が見れるかについて
上杉鉄砲隊だと春や秋の上杉神社の祭りや、冬の
上杉雪灯篭まつりなどで発砲を行っている。
稲富流砲術隊は米沢上杉まつりだけではなく、県外でも発砲を行っているためあちらこちらで
見かけるかもしれない。私の知る限りだと信玄公まつりや、兼続公まつりで行っているようだ。
稲富流砲術隊(米沢藩火縄筒保存会)がオリンピックの射的で、出場したとかいう記事があった。
代表者の名前が宮坂氏(宮坂考古館の館長)でオリンピックに出場したようで
全国的に知名度の高い砲術隊なのかもしれない。
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