
旅人の天晴れ『最上義光の人物像』の話

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最上義光歴史館にある最上義光の木造

最上義光の人物像の内面に迫る!
渡辺謙さん主演の独眼竜政宗で
最上義光の
印象は悪い面で登場したため、あまり良い
人物として語られることが少ない。
ましてや人物像に問題があるから
山形城(霞城公園)に銅像は建てるべきでは
ないとまで当時は言われていたそうだ。
で、実際はどうなのかをブッた斬ってみた!
▲霞城公園にある最上義光の銅像


▲鉄の指揮棒の鉛筆 ▲最上義光公の力石
一、最上義光は怪力だった
- 現在の秋田県を領土を所持していた秋田氏は最上義光のことを書状でこう述べている。
「義光公は話をする時であっても、常に手には鉄の指揮棒を握っておられる」
最上義光と言えば『清和天皇末葉山出羽守有髪僧義光』と彫られた、鉄の指揮棒が
最上義光歴史館に展示されているが、長さは86.5cm、重さは1750g。
これは刀の倍の重さである。それを常に持っていたというから驚きだ。
また鉄でできた扇(鉄扇)などもあり、それで仰いでいたようだ。
蔵王温泉の酢川温泉神社の階段脇には、最上義光公の力石がある。
あの巨大な石を軽々と持ち上げた伝説もあるし、怪力者であったには違いないだろう。


▲山形城本丸跡 ▲東大手門
一、最上義光は民のことを考え指示してた
- 最上義光と言えば家督相続争いや父・義守との対立で、我のために働く人物かと思われるが
天守閣の話がある。最上義光が山形城主になると、家臣達は戦になった時のために
山形城の本丸に天守閣を造るように催促したそうだ。
が、しかし最上義光はこう言う。
「仁義を持って家来を労わるもの。無欲な心で国民をかわいがることはあらゆる謀事に勝るものだ。
城や堀は民衆のくたびれになる。」と悟したそうだ。
確かに城や堀にしても造るにしても、莫大な労力・時間・資金がかかる。
それは東大手門の再建ぶりを見ても納得がいく答えであろう。
また長谷堂城が直江兼続が率いる約2万の兵で襲われた時にも、戦で田畑や建物が荒らされ
再生不能になること恐れ、最上義光は明け逃げを選択しそれを防いだようだ。


▲天童城の主郭跡 ▲八幡山古戦場
一、最上義光は無益な戦いは好まなかった
- 最上義光は天童城主の天童頼久とは何度か戦になったが、最終的には天童城は落城し
天童頼久が負け逃げる形になった。が、しかしアレはわざと逃がしたそうだ。
最上義光は「人は殺さずに生かして力を活かすべきある」という信念があったようだ。
降参した敵に対し、追い込んだり自刃させ殺すようなことは一度もなかったという。
敵を追い込むことで敵味方の多くの兵が死に繋がるため、大きな戦いにならない戦を
していたようだ。謀略で城を落とすことが多ったのも、そのためかもしれない。


▲長谷堂城址 ▲谷地城址
また鮭延城攻略においても殺すことなく降伏させたり、長谷堂城合戦で下吉右衛門が敵地に
取り残される形になったが、殺さずに説得させて戦いを避け、わざと逃がしてあげたようだ。
後に下吉右衛門は最上義光の人物像に大変感激し
その後上杉軍から最上軍に移り、下対馬守(しもつしまのかみ)として最上家の家来になった。
白鳥十郎長久の暗殺においても、あれは後世の人が勝手に作った話だと言われている。
自分の弟も家督相続のため追い込み自刃させたと言うが、最近見付かった資料によると
弟の義時なる人物など最初から存在しなく、父との対立であったという説が有力化している。

▲最上義光のお墓がある光禅寺

結論!
して、他にも最上義光の人物像を語る話はある
のだが、長くなるし大変なので止めとく!
あとは最上義光歴史館へ実際に訪れて観察して
ください。色々と面白い物ですぞ。
最上義光は徳川家康とは仲が大変良く、豊臣
秀吉の命で朝鮮出兵のため赴いた時も家康とは
はやく山形へ帰って鷹狩りがしたい!とか
▲最上義光
故郷の水を一杯飲みたい!など自分の本音を手紙でやり取りするほどの仲であったようだ。
それはその書状が秀吉に見付かってしまったら、お家は取り潰しになるような事である。
また最上義光は多くの寺や土地を寄進し、戦で壊れた寺院なども修理を行うほど仏に仕えていた。
結論からすると、やはりどう思考しても、最上義光は残忍で無慈悲で謀略好きで、己のために動く
人物像には私には見えなかった。テレビの影響とは大きいものですね~
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