米沢に残る傾奇者・前田慶次の跡

▲米沢市の善光寺にある
前田慶次(まえだ けいじ)の供養塔
- ・場所:山形県米沢市万世町堂森
- ・駐車場:野球場に有り(無料)。トイレも有り。
- ・米沢市の名物・特産品:米沢牛、米沢鯉、舘山りんご、うこぎ、雪菜、織物、笹野一刀彫
- ・宿泊先:米沢市格安宿泊ホテル旅館

花の慶次で人気者になった前田慶次
花の慶次とは、人気漫画『北斗の拳』の
作者・原哲夫が書き週刊少年ジャンプで
連載されていた漫画です。
主人公は前田慶次で、傾奇者であった
慶次をユーモラスに書かれた作品は
そのまま北斗の拳の世代の人々に火が
付き、知名度が上がった武将と言えよう。
▲堂森善光寺の門
そしてその人気になった前田慶次(慶次郎)は、米沢にいくつか供養塔や鎧兜などが残っています。
前田慶次の供養塔は、慶次がどこで亡くなったのか不明で、お墓などもどこにあるのか
判らないので、善光寺に供養塔として建て弔っているようです。


『前田邸址 慶次清水 月見平に 今も慶次は生きている』と説明書きがあった。
傾奇御免・前田慶次とは?
- 織田信長の武将・滝川一益の子で、加賀百万石の前田利家の甥にあたり慶次が養子になり
前田姓をなのるようになったと言われている。
傾奇者とは傾き者とも呼ばれ、要は姿形が異風であり慶次は好んでその様な格好をしていた。
慶次の名前は利益、利太、利卓、利治、利貞といくつもあり定まっていなかったようだ。
長谷堂城合戦では殿軍(しんがり)を勤め、無事に撤退できたのも前田慶次の活躍があったから
のようだ。その長谷堂城合戦後に、ここ堂森へ無苦庵(むくあん)で余生を過ごし
慶長17年6月4日に70才で生涯を閉じたらしい。諸芸道が達者で無苦庵道中記や
亀岡文殊では和歌を残すなど、山形には前田慶次の面影が残っている。

▲左、織田信長。右、織田家に伝わる当時の宣教師が描いた
織田信長だと言われている肖像画。
織田信長に見離される
尾張荒子城主の前田利春が永禄3年(1560)に没すると、慶次の養父・利久が跡を継ぎ
その後養父の跡を継ぐ予定であったが、永禄10年(1567)10月に織田信長は利久に家督を4男の
利家に譲るように命じたのだ。村井重頼覚書によれば、利久は若い時から気が難しく、武者道も
ご無沙汰だったと記されている。それが信長の気に触れたのかもしれない。


米沢市の(財)宮坂考古館にある、前田慶次所用の鎧兜『素懸紫糸威朱五枚胴具足』
前田慶次と米沢上杉との接点とは?
- 前田慶次は元々は、利家と共に織田信長に仕える武将であったが、日々のお城勤めに嫌気が
射したのか、利家を水風呂に騙し入れさせ自ら加賀を出奔したという逸話もある。
高禄であちらこちらからスカウトされたが、旅をしながら自由奔放に生きたかったのか断っていた。
前田慶次が京都を旅していると、その頃上杉景勝と共に京へ上京していた直江兼続と出会い
スカウトされる。自由に勤めるというのが条件ということで、会津・上杉藩に仕官し上杉景勝に
仕えることになった。直江兼続に何か魅力を感じ、仕官を受け入れたのだと思う。
上杉将士書上には、慶次は詩歌にも通じ、学者でもあった直江兼続と気があったと記されいる。
前田慶次の格好
最上義光の領地へ攻め入る時の、前田慶次の格好について上杉将士書上にこう記されている。
『最上へ出陣のとき慶次郎は山城守宅で、黒具足に猩々緋の陣羽織に金のひら高い数珠を
首にかけ、数珠の房と金のヒョウタンを背に垂らし、愛馬・松風の頭に金の甲をかぶせて馬に乗り
どんすの袋に味噌やほしいを入れ、鉄砲2挺を乗せていた』と記されている。
朱色の槍を持ち、旗指には大武辺者(大ふへんもの)と書いてある旗指物を付けていたそうだ。
慶次清水と無苦庵

▲堂森善光寺の西にある
慶次清水(けいじ しみず)
現在もかすかに沸いている慶次清水
善光寺からそれほど遠くない所に、慶次清水があります。そこは八幡原野球場の点数ボードの
裏側から進入でき、雑木林の中にしんみりと沸いているだけの場所である。
そこの場所の慶次清水とは、江戸初期頃から呼ばれた名称だそうだ。この辺りに前田慶次は
その昔に、ここ堂森に小さな庵を建てそれを『無苦庵』と名付け生活していた。
現在はその無苦庵の跡すらないが、水の沸く所に庵を建てるとは考えた者ですね。
前田慶次の無苦庵とは?
前田慶次は自分の書いた日記『無苦庵の記』にはこう記してある。
無苦庵は、孝を勤むるべき親もなければ憐れむべき子もなし、心は墨に染めねども、髪結うが
むずかしさに、つむりを剃り、てのつかい不奉公もせず、足の駕籠かき、小物やとわず、7年の病
なければ、三年も蓬も用いず、雲無心にして岫を出ずるもまたおかし、詩歌に心なければ月花も
苦にならず、寝たければ昼もいね、起きたければ夜もおきる。九品蓮台に至らんと思う慾心
なければ、八万地獄に落ちる罪もなし、生きるまで生きたらば、死ぬるでもあろうかと思う。
これはどういう意味かと言うと、堂森の無苦庵での生活は身のまわりのことは自分で行い
自由に暮らしながら、花鳥風月を詠む生活を楽しんでいるという前田慶次の人生観を表すもの也。


▲おぉ!かすかに沸いておるぞよ ▲おや!?ここに庵があったのかね
慶次清水の脇にも供養碑のような物が2つあった
始めにここへ到着すると、慶次清水に2羽のカモが泳いでいた。私が来るとどこがへ飛んで逃げて
行ったが、カモがゆっくり休めるほど人が訪れない場所になっているのだろう。
花の慶次で流行った頃は、だいぶ人も訪れたようでゴミが若干落ちていました。ゴミは持ち帰れ。
何とも綺麗な水が沸いており、隣にも水は沸いていないが小さな池があった。
生物らしき物はいないかと水辺を眺めていたが、カエル以外は特に見当たらなかった。
静かな場所で心落ち着く場所でした。


周囲を探索するが、やはり慶次清水と供養碑以外は何もなかった。少し足がぬかるむ所も有った也。


おや!?変わった形をしているシダ植物がはえてるな・・・
ここに無苦庵があったと慶次が指し示すかの如く、灯籠のような形をした植物が近くにはえてた。
あとここは蚊が多いな。長く居ると蚊に刺されそうだな><;
運が良いと、放浪の旅から帰ってきた前田慶次と出会えるかもしれませんね^^
私が訪れたときは、さっきまでそこに居たと鳥がささやいていました~
亀岡文殊堂奉納詩歌百首


▲高畠町にある日本3文殊の一つ亀岡文殊堂と大聖寺
詩や和歌にも優れていた
長谷堂城合戦により上杉家は会津120万石から米沢30万石に移封された。
翌年の慶長7年(1602年)2月27日に直江兼続の呼びかけにより、この
亀岡文殊で27名の
武将達と連歌を開いた。その席にも前田慶次は出席していた。移封されたばかりで上杉家は
悲惨な状況化であったが、直江兼続には何か狙いがあったのかもしれない。
そして前田慶次は亀岡文殊堂で5首の和歌を詠んでいる。
- ・樵路躑躅 山紫に 岩根のつつじ かりこめて 花をきこりの 負ひ帰る道
- ・夏月 夏の夜の 明やすき月は 明のこり 巻をままなる こまの戸の内
- ・閨上霰 ねやの戸は あとも枕も 風ふれて あられよこぎり 夜や更ぬらん
- ・暮鷹狩 山陰の くるる片野の 鷹人は かへさもさらに 袖のしら雪
- ・船過江 吹く風に 入江の小舟 漕きえて かねの音のみ 夕波の上
現在では亀岡文殊堂の本堂に登る前の、大聖寺の蔵に収められているようだ。
実際に一般の方が拝見することはできないが、長谷堂城合戦後の老年の前田慶次の心情が
かすかに伺える和歌ですね。
和歌以外にも、能楽や槍術も優れていた
また慶次は京都で能楽者と積極的に交流を行い、能の芸を見につけたという。堂森での暮らしの
最中に、慶次が彫ったお面なども存在するようだ。文学や芸だけでなく、武術にも長け槍が
得意であった。どれほど得意かと言うと、長年に渡りご奉公し戦功を多く上げている者にしか
認められない朱色の槍を持つ資格を持っていたようだ。
前田慶次については、いくつか面白エピソードなる逸話も存在しユーモラスで破天荒さが伺える。
それについてはこちら>
前田慶次道中日記前田慶次のお墓があったとされる一花院

▲ここに寺があったと伝わる一花院の跡
米沢城と市役所の間周辺にあるお寺では、その昔は一花院という寺があったそうだ。
前田慶次が亡くなると、はじめは一花院に葬られ、慶次の石塔も存在していたようだ。
しかしそれは江戸時代まで存在していたもので、焼失し失われたようだ。


直江兼続が発明した万年堂の跡がある石塔と小さな神社があった
一花院は千坂氏が創建した寺であるが、千坂氏のお墓の欠片などはバラバラになった状態の物が
別のところへ移され存在しているようだが、一方慶次の物は移されたという記録がないことから
どこへ移されたのか不明だそうな。石でできているため、すべて焼失したとは考えにくいものだ。
堂森の前田慶次の跡についての詳細⇒
米沢・前田慶次郎の歴史跡駐車場は野球場にはあったが、善光寺には門の入口辺りに2,3台あたり車が止めれるスペースがあった。前田慶次供養塔は門を入れば、神社の本堂と隣の建物の間にあるのですぐ気付く。
慶次清水は野球場の点数ボードの裏側に、人の足が踏み入れたような草むらがあるので
そこから進入して1分もかからずに到着できる。まあ動画を見れば場所は判るかと思う。
善光寺付近の道路は狭いので注意を~♪あと慶次清水付近は足場が悪いのでを変に荒らすな。
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