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57万石の大大名、最上義光の歴史


山形城(霞城公園)最上義光
最上義光(もがみ よしあき)の銅像。右手に持ってるのは鉄の指揮棒

最上家の家紋、光禅寺の門の写真
最上義光の出生と、伊達政宗との関係
最上義光は、第10代当主・最上義守の長男として天文15年(1546年)1月1日に生まれた。
幼名は白寿(はくじゅ)または源五郎
(げんごろう)。15歳に元服し、足利義輝の『義』の字を賜り義光と名乗る。

妹は義姫(よしひめ)で和睦のため伊達輝宗の妻となり、後に伊達政宗が生まれる。
       ▲光禅寺の門の最上家の家紋

斯波兼頼最上家系図
▲山形城を築いた最上氏の祖『斯波兼頼』        ▲最上家10代からの系図

最上義光の人物像と嫡男・義康について
左の写真は山形城(霞城公園)の最上義光近くにある斯波兼頼のレリーフ。
最上義光の子・長男の最上義康(よしやす)は関ヶ原の合戦後仲が悪くなり、最上義光が
家督相続に悩み、やもなく最上義光は義康を城に呼び出し、その道中に鉄砲隊を忍ばせ暗殺
させたなど、色々と説があるがこちらの修理塚と首なし地蔵堂が有力説かと思われる。
最上義光の人物像について


青年の頃の最上義光の武勇


蔵王温泉蔵王の温泉    ▲蔵王温泉の酢川温泉神社の脇にある石碑        ▲最上義光公の力石

蔵王温泉での武勇と力石
蔵王温泉
の酢川温泉神社へ登る階段の途中に、最上義光公の力石があります。
石碑には永禄4年(1561年)最上義光が16歳の時に、父に連れられ蔵王の山で温泉に滞在し
狩りをしに来たが、ある夜に守りが手薄なのを数十名の盗賊が見て襲撃してきた。

最上義光は盗賊の中に斬り入り、敵の首領を討ち取り手下2人に手傷を負わせて盗賊達は
恐れて逃げたという武勇があります。顔にある傷は、その時戦ったときに受けた跡らしい。
父・義守はこれを賞し、家に代々伝わる名刀『笹切り』(ささきり)を与えたと言う。
ニックネームは虎将(こしょう)と呼ばれ、現在で分かっているもっとも古いニックネーム。

力石の方は『羽源記』によると、最上義光が家来達と力くらべをした時に、誰も持ち上げれなかった
大石を最上義光は軽々と持ち上げたそうです。この石は重量約五十貫目(約190kg)で
蔵王の石と言われる安山岩塊。


最上家の家督相続争い


仙台城(青葉城)伊達政宗(だて まさむね)
家督を相続、第11代の山形城主へ
義光は25歳の時に父・義守が弟・義時に家督を
譲ろうとしていたので父を隠居に追い込み
弟のいる中野城を攻めたて、弟を自害に
追い込んで家督を継いだと言われているが
事実かどうかは不明。

伊達政宗とは何度か戦になるが、結局は義姫に
止められ和議を成立させている。
                                   ▲仙台城(青葉城)伊達政宗の銅像

新しく史料が発見されたようで、それによると弟・義時という人物は最初から存在しなく
父・義守と最上義光との対立であったという説が現在では有力化している。

しかし家督争いに勝利したとは言え、当時は伊達家の属国にすぎず、義光の威信もほとんど無く
義光の言うことに従わず、統制はとれていなかった。その反抗的な一族達は、独自に領国を形成
し一族同士の結束は、消えうせて独立化した状態であった。

そして、支配力を失った最上義光はその反抗的な一族の粛清に乗り出すのであった…


謀略に秀でた最上義光の敵城の進行と攻略内容


最上義光

最上義光の戦いは同族同士の争いが多かった
義光派と反義光派とで対立し、同族同士で争うこうとになる。最上義光はまず村山地方を攻略し
当時貿易が盛んだった海辺の地の入手も兼ねて、武藤氏が支配する庄内地方へと侵攻。
白鳥十郎長久の暗殺など惨い話ではあるが、実際にあったかどうか不明で後世の人が勝手に
作った話である可能性がある。資料が少ないので軍記に頼る話も多々ある。

上山城を攻略する


上山城(月岡城)その1上山城(月岡城)その2上山市にある上山城(かみのやま)別名:月岡城

天正6年(1578年)上山城の城主『上山満兼』(みつかね)へ侵攻。上山満兼は伊達政宗の
父・伊達輝宗と組んで戦いに備えた。しかし最上義光は裏で、上山満兼の家臣・里見民部
(さとみ みんぶ)に接近し内応し見事討ち取れば、上山をそのまま与えると約束していたのだ。
里見民部は上山満兼を暗殺し、最上義光は1万7千石を与え里見氏を上山城主にした。


天童城と東根城を攻略する


将棋の里、天童城(舞鶴城)その1東根城址・大ケヤキ▲天童城址(てんどう)別名:舞鶴城        ▲東根城址(ひがしね)別名:小田島城

天正7年(1579年)天童城の城主『天童頼久』(よりひさ)へ侵攻。しかし天童頼久を中心とした
連合軍『天童八楯』に敗退。特に天童八楯の中の延沢満延(のべさわ みつのぶ)は延沢銀山
所有していて、その豊富な軍資金で軍事面が強かったのだ。そこで最上義光は延沢満延の子の
長男・延沢康光(やすみつ)に和睦を条件に娘・松尾を嫁がせ寝返らせた。

さらに天童頼貞の弟・東根城主である東根頼景(よりかげ)の家老を内応させ、東根頼景を討ち取り戦力の弱体を謀った。天童八楯は崩壊し天童城は滅びた、天童頼久は逃げ伊達家に頼った。


小国城と鮭延城を攻略する


万騎の原小国城址▲万騎ノ原古戦場(まきのはら)            ▲小国城の本丸址

天正9年(1580年)尾花沢(おばなざわ)で『馬揃え』が行われた。馬揃えとは合戦の前に
甲冑を身に纏い、馬に乗り陣形や戦術を見せたりする軍事パレードのようなものだ。
その馬揃えに小国城の城主・細川直元は参陣しなかった。娘を天童頼貞の子の
天童頼澄(よりずみ)に嫁がせているから、最上家に従う意思はなかったのだろう。

その年の夏に最上義光は兵3500人を率いて山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越え、最上郡最上町に
ある小国城に出兵した。細川直元は万騎ノ原で抵抗した。しかし多勢に無勢、細川軍の兵は
わずか350人程度。短時間に敗北し、城や城下町は炎上し滅びた。

同年、真室川(まむろがわ)の鮭延城(さけのべ、別名:真室城)の城主・鮭延秀綱(ひでつな)を
最上義光は鮭延城を包囲し、兵糧攻めにした。長期に渡り包囲したため食料が尽き、鮭延軍は城を捨てて大宝寺の武藤氏に頼り逃れた。しかし後から最上義光が、わざと鮭延軍を取り逃がしたと
知ると佐々木秀綱は義光に感激し、名前を鮭延越前守秀綱と名乗り最上義光の重臣になった。


白鳥十郎長久の暗殺と谷地城を攻略する


谷地城址東林寺▲河北町谷地(やち)の三社宮にある谷地城址    ▲白鳥十郎長久のお墓がある東林寺

天正12年(1584年)谷地城の城主『白鳥十郎長久』(しらとり ながひさ)が、勝手に織田信長
白馬を送り接近している情報を聞き村山郡侵攻を考える。

まず白鳥長久の娘を、最上義光の子の長男・義康(よしやす)の妻に迎え、その後『最上義光が重い病にかかった』と噂の情報を流し、白鳥長久に最上家の系図を渡すから山形城に来いと招いた。
系図は最上家の保証書のような物で、次期山形城主の可能性も出てくる。

不審には思ったが結婚を祝ったばかりの関係故に、白鳥長久が山形城に赴き最上義光から系図を
受け取った瞬間、病のフリをしていた最上義光が床に隠していた小太刀で自ら白鳥長久を斬殺。
城主を討ち取り降伏しろと谷地城側に伝えたが、向こうは降伏しなかったので侵攻し攻略した。


寒河江城を攻略する


寒河江城址その1寒河江城址その2寒河江城址

同年・白鳥十郎長久を討ち取った後、最上義光はすぐに白鳥長久と連合軍である寒河江城の
攻略にとりかかった。寒河江城主は第18代・大江高基(おおえ たかもと)。

大江高基の弟である大力無双の剛の者・羽柴勘十郎と、白鳥十郎長久の家来が討って出てきた。最上軍の兵は3千人、寒河江軍は2千人。数では最上軍が上手だったが
勇猛果敢に攻めて来て押され気味の所を、最上義光は陣を引いたと見せかけて
羽柴勘十郎を誘い込み伏せていた鉄砲隊で討ち取った。

大江高基は敗れた知ると、貫見の御楯山にある館に逃げ3名の従者と共に自刃し大江氏は滅亡。


庄内地方を攻略するが、後に失敗する


尾浦城(大山公園)十五里ヶ原の戦い(古戦場)▲武藤氏本丸址(三吉神社)        ▲十五里ヶ原の戦いの古戦場址

天正11年(1582年)現在の鶴岡市大山の尾浦城主(おうら、別名:大浦城)・大宝寺義氏
(だいほうじ よしうじ)、旧名:武藤義氏。大宝寺義氏は高慢で『悪屋形』と庄内の武士や
領民達から陰で呼ばれ、人望がなく回りの心は離れた状況だった。大宝寺義氏は最上征伐を
起こし、最上領の清水城に攻めて来た。
最上義光は、大宝寺の家臣・東禅寺義長(別名:前森蔵人)、砂越氏、安東氏と内応を密約し
北と東から挟撃した。大宝寺義氏は追い詰められ自刃し、庄内進出の一歩を踏んだ。

天正15年(1587年)大宝寺義氏の家督を継いだ義氏の弟・大宝寺義興(よしおき)が
上杉家の家臣・本庄繁長(しげなが)の子の次男・義勝(よしかつ)を養子に迎え
最上から上杉側につこうとした。最上義光は、大宝寺義興と対立をしていた東禅寺氏と共に
尾浦城を攻め、大宝寺義興を自刃させ養子の義勝を追放させた。

義勝は本庄繁長を引きつれ最上軍と、現在の鶴岡市の安丹(あんたん)付近、十五里ヶ原で
争いなる。最上軍は挟み撃ちで襲撃され大敗。東禅寺義長・勝正、兄弟は討死した。
この戦いは十五里ヶ原合戦や、千安合戦などと呼ばれる。

直江兼続(米沢市役所のレリーフ)
▲豊臣五大老の一人の上杉景勝の家臣・直江兼続(なおえ かねつぐ)

その後戦いは続いたが上杉家の家臣で米沢城30万石所有の直江兼続が最上義光の庄内攻めは
『惣無事令』に違反していると時の天下人・豊臣秀吉に訴えられた。最上義光も徳川家康を通じて
秀吉に庄内の領土所有を望んだが、上杉家が有利になるように取り計られてしまい庄内地方は
上杉領として公認されてしまい、最上義光は庄内を失ってしまった。

外交戦略に負けた最上義光は、奥州仕置きにより伊達家が領土没収をされるのを横目に
秀吉の恐ろしさを感じ、時の天下人・豊臣秀吉に精を出すようになる。


そして慶長5年(1600年)最上義光55歳の時、関ヶ原の合戦が起こるのであった…
直江軍と最上軍の壮絶な決戦・奥羽の関ヶ原合戦>畑谷城長谷堂城合戦


最上義光の年表


最上義光の生まれてから、57万石の大大名に至るまでの年表

月日年齢内容
天文15年(1546)1歳父・最上義守の嫡男として山形城で生まれる。幼名は白寿(はくじゅ)。
通称は源五郎。
永禄3年(1560)15歳元服して、室町幕府の将軍・足利義輝より「義」の字を賜り
最上義光と名乗る。中野門田にて寒河江氏と戦う(初陣)
永禄4年(1561)16歳蔵王の高湯にて、盗賊と戦う。
永禄6年(1563)18歳父と共に上洛し、室町幕府の将軍・足利義輝と謁する。
元亀元年(1570)25歳父・義守が禅門に入り法号「栄林」を称し、最上義光が最上家第11代の
当主となる。
元亀2年(1571)26歳父・義守は退隠。
天正2年(1574)29歳最上の乱が起こる。
天正5年(1577)32歳天童氏を攻撃するが、和睦する。
天正10年(1582)37歳本能寺の変。鮭延氏と大宝寺氏と争う。
天正12年(1584)39歳谷地城・白鳥氏と寒河江氏を攻め滅ぼす。その後天童を攻略し
天童氏は逃亡。
天正15年(1587)42歳庄内全域を支配する。豊臣秀吉が惣無事令を出す。
天正16年(1588)43歳十五里ヶ原の戦いで本庄繁長に敗れる。
天正18年(1590)45歳豊臣秀吉の命により小田原城攻めに参陣する。
天正19年(1591)46歳官位・従四位下侍従になる。秀吉は関白になる。伊達政宗は奥州仕置き
により岩出山に移封。
天正20年(1592)47歳朝鮮出兵のため名古屋へ向かうが、渡航せずに済む。
文禄4年(1595)50歳豊臣秀次事件により、8月2日、最上義光の愛娘・駒姫が京都の三条河原で
処刑される。その後16日に最上義光の正室・大崎夫人が急死。
文禄5年(1596)51歳専称寺を駒姫と夫人の菩提寺とする。
慶長3年(1598)53歳上杉景勝が会津120万石で移封される。8月に豊臣秀吉が亡くなる。
慶長5年(1600)55歳9月に直江兼続が率いる2万余りの兵と戦う。
慶長7年(1602)57歳秋田県由利郡を加増されて57万石の大大名となる。(全国第5位の石高数)


最上義光が残した神社やお寺


5重の塔
▲羽黒山・五重塔

3重の塔
重要文化に指定されている神社やお寺
最上義光は戦で多くの領土を謀略や内応により奪ってきたが、奪った後は土地の寄付や神社の建築や再建をしている。

地方の大工を集めては塔の作成や再建をし
今では重要文化財とされている。
出羽三山の一つ羽黒山・五重塔。高さが29mで、昭和41年に国宝に指定されました。

慈恩寺・三重塔。高さ26.7mで、慶長13年(1608)に最上義光が建築したが、文政6年(1823)に焼失。現在の三重塔は文政13年(1830)に再建されたもの。県指定文化財。

左下の写真、専称寺。愛娘の駒姫と正室の大崎夫人を慰めるために移築されたお寺。
浄土宗寺院で、天童の高擶(たかだま)から移されたものとされている。堂々たる大伽藍で、天然記念物の大イチョウもある。

         ▲慈恩寺(じおんじ)三重塔


専称寺愛宕神社▲専称寺(せんしょうじ)               ▲愛宕神社(あたご)

天正12年(1584)10月10日に最上義光が天童城(舞鶴公園)を攻略し、天童頼久は仙台に逃亡。
最上義光は城の山頂に愛宕神社を造営し、社領1.370石を寄進し祭神として勝軍地蔵を安置した。
市の指定文化財に指定されている。

山寺立石寺
山寺の立石寺にある根本中堂
ブナ材による建築物としては日本では最古のものとされている建物。

最上氏の祖『斯波兼頼』が1300年代に建築とされている。中国-比叡山-立石寺へと移した『不滅の法灯』は1千年以上燃え続けている。
国の重要文化財に指定されていて拝観する
ことができる。
  ▲山寺・立石寺 根本中堂(こんぽんちゅうどう)

霊屋
山寺・立石寺にある最上義光霊屋
山寺立石寺には最上義光の霊屋がある。
霊屋とは、死者の霊を祭る建物のことで葬儀の
前にしばらく死体を安置しておく場所のこと。

場所は中性院の手前辺りにある。気づかないで
通り過ぎる方が多い。説明板とか何も無し。
霊屋(読み方は、たまや、おたまやと呼ぶ。)
                                      ▲最上義光霊屋(たまや)

永禄13年(1570年)正月には山寺立石寺へ祈願文を出していて、もし家督を相続することが叶ったら
山寺の安全を保護するという約束書きを書いた。

鳥海月山両所宮
▲鳥海月山両所宮(ちょうかいがっさんりょうじょぐう)

源頼義の建立が初めとされている両所宮、文録4年(1595)に最上義光は従来の祠官を廃し
真言宗成就院を別当と定め、鳥海月山両所宮に1,150石を寄進し本殿を大規模に再建した。
その後江戸時代あたりまで、最上家の崇敬社となった。


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