上杉と最上の壮絶な戦い・奥羽の関ヶ原 長谷堂城合戦

▲直江軍が陣を敷いた菅沢山から
長谷堂城跡(はせどう)を見た風景
畑谷城から長谷堂城へ侵攻する直江軍の軍勢
前略、
直江兼続が率いる2万余の軍勢で、畑谷城をわずか2時間で江口五兵衛光清が率いる
3百余の兵を撃破し、軍勢は山形城の要にあたる長谷堂城を攻めるために菅沢山に陣を張る。
最上義光は、戦法『明け逃げ』(*
畑谷城を参照)を駆使し、最上義光の嫡男・義康を仙台にいる
伊達政宗に援軍の要請を頼みに行かせ、長谷堂城で直江軍の軍勢を迎え討つ。
そして
最上義光の生涯にして最大の戦・奥羽の関ヶ原 長谷堂城合戦が起こった。

長谷堂城に志村伊豆守光安を派遣
9月14日に直江軍は
長谷堂城の北西1kmに
ある菅沢山へ着陣し、長谷堂城を包囲し
攻撃を仕掛けた。
長谷堂城の主将は志村伊豆守光安(しむら
いずのかみ あきやす)、副将は
鮭延秀綱。
他には小国大膳、谷地森伯耆、川熊壱岐
坂紀伊守光秀が最上の精鋭が援軍として
入った。長谷堂城の兵の数はわずか千名余。
▲画像クリックで拡大表示可能
増援だけで旗本百騎、鉄砲足軽2百余との記録から、長谷堂城には1~5千名ぐらいの兵数だと
言われている。追激戦のときの総兵数が5千名で、その以前の城の守りが千名なのかもしれない。
長谷堂城から山形城への距離は約7km程度しか離れておらず、山形城内の兵士もおよそ4千余と
兵数が少ないため、なんとしても長谷堂城を死守しなければならなかった。

▲画像クリックで拡大表示可能。直江山城守本陣跡の看板の裏面、長谷堂城合戦古戦場図
真ん中下が、直江軍が陣を貼った菅沢山(通称・すげさわの丘)。真ん中ちょい右上が志村光安
率いる長谷堂城。そのわずか1kmの距離で半月の間、昼夜問わず激しい戦いが行われた。
直江軍と最上軍の戦力の差
直江兼続が率いる上杉軍の兵数は、およそ2万~2万4千余(4万という説もある)。
一方、最上軍の方は多く見積もっても1万余だったという。また最上軍は、庄内で上杉家の家臣
本庄繁長と十五里ヶ原で戦い負け、それ以来およそ10年くらい大合戦をしたことがない。
また最上軍は軍勢で山形へ攻め入られることもなかった。上杉軍の方は各地の合戦で名勝を
繰り広げ戦上手だったのだ。
いかなる強敵も彼には降ったと言われる 志村光安

▲長谷堂城の本丸跡

長谷堂城がの本丸から見た、上杉軍が陣を敷いた菅沢の丘の風景
上杉軍の主力はあえて険しい山道から侵入
長井市草岡から鶴岡市(旧朝日村)の鱒淵を繋ぐ60kmの山道・
朝日軍道と呼ばれる道がある。
上杉家は日頃から最上領土を避け、この道を使い庄内の方へ荷物運搬として使っていた道や
白鷹町から山形市の富神山付近まで延びる狐越街道から上杉家は最上領土へ侵入した。
直江兼続は
荒砥城で戦勝祈願を行い、主力部隊約2万を率いて畑谷城へ襲ったと伝わる。
上山市と南陽市を繋ぐ羽州街道と呼ばれる大きな道があるが、上杉の主力軍はそこから来ると
思わせておいて、あえて兵を分散して最上軍を襲い包囲するのが目的だったと推測される。


長井市草岡にある朝日軍道と、兼続が戦勝祈願した白鷹町の荒砥城の御楯稲荷神社

性剛にして、口才人をくじく志村光安の戦法
9月14日、直江兼続は長谷堂城がよく見渡せる
菅沢山の高台に布陣すると2万余の軍勢で城を囲み総攻撃を仕掛けた。
しかし城は落ちなかった。長谷堂城の周りは田んぼに囲まれ、自然の要害でできていたのだ。
直江軍の兵は、その田んぼのぬかるみに足を取られ
動きを封じられた所に、鬼の如く鉄砲と弓で一斉射撃を浴びせられ直江軍は苦戦してた。
さらに志村光安は直江軍がこの辺りの地理を知らないことに目を付け、9月16日の夜に家臣の大風右衛門、横尾勘解曲(かげゆ)らと、2百余の足軽で
決死隊を作り上杉軍へ夜襲を仕掛けた。春日元忠の陣へ攻め入り大戦果を上げる。最上軍は戦死者8名で済んだが、直江軍は115名討ち取られる。
▲画像クリックで拡大表示可能


現在も残る高畠城の堀跡
この先陣・春日右衛門元忠(高畠城主で上杉家・重臣)への夜襲斬り込みや、長谷堂城の副将・
鮭延越前守秀綱が手勢を引き連れ、先陣に斬り込むほど最上軍は勇敢な戦いぶりだった。
後日直江兼続がその戦いぶりに大変感心したらしく、褒美を届けたという逸話があるほどだ。

伊達家は東か西に付くかで迷っていた
一方、最上義光の嫡男・義康が一日中走り
続け、仙台の伊達政宗に向かい9月15日の深夜に北目城へ到着すると、伊達家では翌朝会議を開き、伊達政宗の叔父にあたる留守政景へ
馬上5百騎と鉄砲7百丁を率いらせ山形城へ
助太刀に行かせた。
しかし伊達家では関ヶ原合戦で、東西どちらが
勝利するか様子を見ていたらしく中々援軍を出すのを渋っていたのだ。ましてや白石を上杉家から占領してからは、上杉家と和睦し停戦中だったので簡単に条件を破棄する訳にもいかなかった。
▲仙台・伊達政宗(だて まさむね)の銅像
伊達家は渋々山形へ援軍を送った
それに最上義光とは血は繋がっている同族とは言えど、最上家は結んだ条件を破り、勝手に侵攻したりして、伊達家とは度々争いになるが、政宗は母に止められやむなく退散する仲にあった。
そんな状態だったので、業を煮やした最上義光の妹・義姫(政宗の母)が留守政景へ、はやくはやく援軍を山形へ送ってくれと、手紙で急ぐように催促するほどだった。留守政景が山形へ姿を現した
のは9月22日で、笹屋峠を通り山形城より東側にある東沢辺りに布陣したようだ。
上山・東根での戦い


▲中山城の本丸跡 ▲広河原古戦場
上杉軍はおよそ4千の兵で進軍
上山の中山口では中山城主・横田旨俊(むねとし)と、上杉軍の与板衆・本村造酒丞親盛
(ほむら みきのじょう ちかもり)と、武田信玄の旧臣・清水三河守康徳を大将として4千余の軍勢が
山形城の支城である上山城を攻略し、長谷堂城で争っている軍と合流するため進軍した。
直江兼続の命により9月16日に中山城に兵をそろえ、9月17日に横田旨俊を後陣におき
本村親盛と清水康徳の本村・清水軍は、高岡山の麓から赤坂方面へ向かい
横田軍は川口を焼き払い石曽根方面へ進軍を試みた。


現在も中山城の本丸にかすかに残る本丸跡と石垣

上山城主・里見民部と500余の兵
上山城の最上軍は家臣・上山城主の里見民部(みんぶ)が守る約500余の兵だった。
篭城では落ちると思った里見民部は、兵を分散
させ伏兵戦にでた。赤坂周辺の細い道のりに
目を付け本村・清水の軍勢の軍列が伸びきった
所を、近くの鍵取山に伏せていた兵で襲った。
▲前川ダム付近にある上杉・最上両軍の首塚
混乱した上杉軍の兵は崩れ逃げたが中丸太郎左衛門、平塚清七郎、万年与左衛門、神成喜六ら
数十人が迎え撃った。上杉軍は大将・本村親盛が討取られ、最上軍は大将・草刈志摩守を
鉄砲で打ち倒された。上山での詳しい戦いはこちらの
慶長出羽合戦と上山の戦いに記載。
一方、横田軍は川口から石曽根方面へ向かっていたが、これに最上の民衆による軍民協同者が
激しく抵抗。横田軍はやもなく撤退した。書状によれば赤坂の近内といふ者に1番首とし、2番首は
川口村次右衛門が取ると記載されいて、横田自信も危険な目にあい撤退したのだろう。


▲長瀞城跡(ながとろ) ▲東根城の本丸跡
東根での戦い
東根の方では、庄内の酒田城(東禅寺城)から攻め込む上杉軍は、東根市の長瀞にある
長瀞城を落城させ、近くにある東根城へ軍進。
東根城へは少数の留守兵がいたようで、留守兵と地元の民衆が必死に抵抗し東根城の
落城は免れたようだ。
最上・伊達連合軍による追撃

富神山から山形城(霞城公園)を見た風景。真ん中ちょい上の長い方の森が山形城。
難攻不落の長谷堂城にいらだつ直江兼続
9月下旬になっても長谷堂城は落ちなかった。直江兼続は「たかが小さな山城一つぐらい」と言い
長谷堂城へ3回ほど総攻撃を仕掛けたが、自然の要害でできた固い守りに城を落とせなかった。
9月29日には、「小さな山城に手間取っているが、明日には陣替えをして焼き払うつもりだ」と
書状に書くほど、いかに長谷堂城への攻略が手間取っていたのかが分かるものだ。
しかも伊達の援軍も到着し、次第に最上軍の有利な戦況へとなった。

富神山から10日間、山形城を眺める
直江兼続はその頃、富神山の麓から山形城を
眺めていた。軍勢を分け山形城へ進軍するつもりだったのかは分からないが、山形城の様子を
伺っていた。
しかし10日間待っても霞は晴れなかった。そのうち山形城を霞ヶ城と呼んでしまうほど霞は一向に取れず麓から、ただ眺めるばかりだったという。
▲清源寺から見た長谷堂城の様子
その9月29日に、伊達政宗のところに関ヶ原合戦で徳川家康軍が勝利した知らせが届き
その報告はすぐに最上家にも届いた。また
上杉景勝の陣営にも届いたらしく
直江兼続は「時に利あらず」と言い10月1日に、長谷堂城の兵の囲みを解き全軍撤退を命じた。

▲山形城から富神山の方角を鉄の指揮棒で指す、最上義光の銅像
山形城主・最上義光自ら出陣
上杉軍が関ヶ原合戦の知らせに気づき、全軍撤退をしている状況を見て最上義光が自ら鉄の指揮棒を持ち、目指すは長谷堂城周辺から、富神山へ出陣した。そして、伊達の援軍もそれに続いた。
その時の様子を表したのが、山形城(霞城公園)にある最上義光の銅像なのだ。
方角は富神山を鉄棒で指し、自ら軍を率い先頭に立ち出陣する光景を彫ったものである。

直江軍はうまく殿軍を行い米沢に逃れる
直江軍は全軍撤退する中、
前田慶次・杉原
親憲(水原)らが殿軍(しんがり)を務めた。
鉄砲隊をうまく駆使し米沢に逃れることができた。前田慶次も60歳ほどの老年ながら
槍を振り回し勇猛果敢に戦ったそうだ。
また直江兼続が作戦失敗のせいか切腹しようとしたが、前田慶次はそれを止めたそうだ。
▲最上義光
その攻め合いは激しいもので最上義光自らが先頭に出て追撃を行うものだから、直江軍が撃った
弾が最上義光の頭に命中し、側にいた最上の軍師・喜吽(きうん)も最上義光の目の前で
肩から胸を鉄砲で撃たれ戦死した。
その時撃たれた兜は、天下統一を果たした
織田信長により貰った三十八間金覆輪筋兜と言われ
現在も弾の跡が兜の額部分に、ヒビが残ったまま最上義光歴史記念館に展示されている。
直江兼続が殿軍をしたかどうかについて
江戸中期の秋田の学者・戸部一斉正直(とべいっかんさいまさなお)が描いたとされる長谷堂合戦図屏風を見ると、白い幌を身にまとった直江兼続が鉄砲隊に守られ、先陣の方に描かれていること
からすると、上杉軍の撤退のときに直江兼続も攻城戦失敗の責任をとり、自ら殿軍役をした可能性もあるかもしれない。
どうやって上杉軍は撤退できたのか?
追撃戦の時に一体どうやって上杉軍は逃れたのかと言うと、鉄砲による『懸かり引き』と呼ばれる
戦い方で逃げれたと伝わる。懸かり引きとはまず兵を引いてしまうと、相手が全力を持って
襲って来る。そこで鉄砲隊を配置して撃つ。相手はたまらず一時撤退をする。
その隙に上杉軍は逃げる。最上軍は撤退するのを見るとまた襲いかかる。
また鉄砲隊を配置し、攻撃しては逃げる戦法です。
長谷堂城合戦の終焉

現在も供養されている主水塚(もんどづか)。左に微かに移ってるのが長谷堂城
両軍多くの武将と兵が亡くなった
約半月の戦いで、直江軍は高名な兵法者で新影流の名人と言われた上泉主水泰綱(憲元)が
討取られ、直江兼続の片腕の溝口左馬之助は最上・伊達の追撃戦で重傷を負い陣まで戻るが
夜に息を引き取った。部隊長クラスの松本杢之助、岩井備中などの猛将も戦死した。
戦後村人達は上泉主水泰綱をはじめ、両軍の戦死者・2百余を埋葬し『主水塚』と名づけた。


▲加藤掃部左エ門の碑 ▲湯目加賀守重の碑
また最上・伊達軍も多くの武将を亡くした。最上義光の側近の堀喜吽、志村藤右衛門
地元の豪族、佐藤理兵衛、そして伊達政宗の母・保春院の警護を務め、江口五兵衛光清とは
昵懇の仲(じっこんのなか)であった加藤掃部衛門も討ち死にした。
伊達政宗の命により、最上へ援軍にやって来た湯目守重も遅沢川付近で上杉軍と戦い亡くなった。
加藤・湯の目家の供養のために碑を作り、現在でも供養している。
最上軍のお城で最終的に残ったのは、山形城・長谷堂城・上山城(高楯城)・東根城が残った。
上杉・最上軍の戦死者数について
一体どちらが多くの首を上げたかについては、現在も謎のままである。
理由は上杉・最上の報告書は、どれも数が合わないのだ。山形城から援軍に行った最上の兵を
現在の山形南店のジャスコ辺りで、杉原親憲が率いる鉄砲隊が3百余の首を取ったと上泉主水の
書状で書かれているが、同じ内容だと思われる直江兼続が、秋山伊賀守に出した書状だと
2百余の首を討取ったと書かれている。
一方最上の方では、武士十数騎討取り我が軍の指揮が上がったなどと書かれている。
どちらも自国を誇らしく書いたような文面であり、正確な戦死者数は未だ不明である。
直江軍が撤退する中、庄内から進出した軍勢の方は


▲寒河江城跡 ▲谷地城跡
志駄義秀は逃れるが、下吉右衛門は包囲される
最上川を上りいくつかの城や寒河江を占領した、酒田の東禅寺城主・志駄義秀は直江軍が
撤退したとの報告を聞くと、すぐに六十里越から庄内へ逃れることができた。
しかし谷地城を占領した尾浦城主・下吉右衛門の陣には連絡が入らず、取り残されてしまった。
長谷堂・上山の戦いが終わり、一息ついたところで最上軍は谷地城に篭った下吉右衛門を包囲。
それでも降伏しなかったので、最上義光は志村伊豆守に説得しに行かせた。
志村の話に心を討たれた、下吉右衛門は降伏したという。その後、感激した下吉右衛門は上杉軍
から最上軍に付き、庄内の大山城と1万2千石を与えられ下対馬守(しもつしまのかみ)となった。
最上義光は57万石の大大名に
順位 | 藩主名 | 領土 | 石高 |
1 | 前田利長 | 加賀金沢 | 119.5万石 |
2 | 結城秀康 | 越前北ノ庄 | 67万石 |
3 | 伊達政宗 | 陸奥仙台 | 60.5万石 |
4 | 蒲生秀行 | 陸奥会津 | 60万石 |
5 | 最上義光 | 出羽山形 | 57万石 |
6 | 島津忠垣 | 薩摩・大隈 | 56万石 |
7 | 黒田長政 | 筑前福岡 | 52.3万石 |
8 | 加藤清正 | 肥後熊本 | 52万石 |
8 | 池田輝政 | 播磨姫路 | 52万石 |
8 | 松平忠吉 | 尾張清洲 | 52万石 |
8 | 小早川秀秋 | 肥後名島 | 52万石 |
- | 上杉景勝 | 出羽米沢 | 30万石 |
▲慶長7年(1602)頃のおよその大名石高数
山形は高く評価され全国で第5位、東北の雄になった
最上義光は徳川家康に、よくこれだけの少ない兵で守り抜いたことに高く評価し山形は33万石
加増され、57万石の大大名になった。これは実際に検地をした訳ではなく、最上家が改易になった
時に57万石と記されていたので、このような数字になっている。実際は最上100万石はあったのではないかという説もある。どちらにしても伊達と並ぶ大名になり、東北の雄になったのは間違いない。
上杉景勝は徳川家康に謝罪
上杉家は関ヶ原の火種を起した元で、本来ならばお家取り潰しは当然かと思われたが
利害を超えてまで義に対し貫いた、上杉景勝の人間性により取り潰しはまぬがれ会津120万石は
減石され、米沢に30万石移封で済んだ。その後、上杉家は徳川家に尽くすことになる。


▲酒田にある亀ヶ崎城跡(東禅寺城) ▲志村光安の石造九重の供養塔
長谷堂城合戦で活躍した志村伊豆守光安
長谷堂城合戦で活躍した志村伊豆守光安は、酒田の東禅寺城と3万石を与えられ城主になった。
1603年、酒田の港に大亀がうち上げられ、最上義光は縁起が良いものだと言い長寿幸福のため
東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城と改名した。

志村光安をしのんだ石造九重の供養塔
志村光安が亡くなると、長谷堂の
清源寺の
和尚を伴い酒田に青原寺を創建した。
慶長16年(1611)に志村光安は青原寺に葬られたが、家臣達は志村光安の人徳業績を
たたえ、遊佐町の
永泉寺(ようぜんじ)に
石造九重の供養塔を建てた。現在では森の中にあり、誰も人が訪ぬ静かな場所にある。
供養塔は県指定文化財に指定されている。
▲長谷堂にある清源寺の門


▲米沢にある春日山 林泉寺 ▲山形市にある光禅寺
上杉・最上の両雄の死後、直江兼続は春日山 林泉寺に眠り、最上義光は光禅寺に眠る。
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