上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


山形観光旅行記

旅人の天晴れ『上杉景勝』の話


上杉景勝の肖像画
▲米沢藩初代藩主の上杉景勝(かげかつ)

上杉景勝の簡単な生い立ちについて
上杉景勝は弘治元年(1555年)10月27日に、新潟県南魚沼郡の上田荘坂戸城で父・長尾政景の
二男として生まれる。母は謙信の姉・仙桃院(せんとういん)。幼名は卵松(うのまつ)。
上杉謙信の養子後に喜平次顕景(あきかげ)と改名。父・政景は坂戸城近くの野尻池で溺死した
そうで上杉謙信は景勝と姉・仙桃院を春日山城へ引き取った。

上杉謙信が亡くなると御館の乱で、謙信のもう一人の養子の景虎と後継者争いに勝利して
上杉家第2代当主となる。豊臣政権になると上杉景勝は豊臣秀吉の重臣となり、秀吉の5大老まで登りつめた。慶長3年(1598年)には越後から会津120万石へ国を移封したが、関ヶ原合戦後には
米沢30万石に国替えを命じられ、米沢城が上杉家の拠点となった。

会津若松城の写真
笑わない武将・上杉景勝
上杉景勝は背が低く無口で両目が鋭く
常に眉間に筋を立て笑うことがなかったという。小さい頃から直江兼続と共に上杉謙信の元で学んだが、上杉謙信を深く尊敬し
謙信の宗教を重んじるストイック的な性格を
真似て、そうの様な雰囲気になったらしい。

それについて、いくつか逸話がある。
         ▲会津若松城(鶴ヶ城)

上杉景勝の逸話
景勝とそのお供者達・大勢が船に乗り、船が沈みそうなったときに景勝が杖を振り上げると
お供達が川へ飛び込み船が沈まないようにしたが、泳げない者までもが川へ飛び込んだという。
参勤交代では失礼のないようにか、加護廻りの者は誰も咳払い一つせず、足音だけが響き渡る
ものだったそうだ。眼光鋭く、いかに威圧的な雰囲気だったかを感じ取れるものだ。

直江兼続
直江兼続との関係
上杉謙信との間は前述の養子であり
謙信は景勝に直筆のかな手本まで与えるほど
親子のような仲であったが

直江兼続との関係は謙信の妹に素質を認められ近侍を務め、年齢もそれほど離れていなかったので、上杉景勝と直江兼続は共に過ごす兄弟のような仲であったようだ。
                                    ▲愛の前立ての武将・直江兼続

奥羽の関ヶ原と呼ばれる山形城最上義光へ攻撃を仕掛ける際に、景勝は直江兼続を総大将に
任命し、およそ2万余の兵を預けるほどお互いの信頼は厚いものであったことに違いないだろう。


愛刀家で、キリシタンを保護していた
景勝は愛刀家で、愛蔵品から選択した『上杉景勝御手選三十五腰』と呼ばれる刀のリストが
ある。今ではそのいくつかの刀は国宝や重要文化財に指定されいて、刀の目利きがあったようだ。

徳川幕府の時代になると、上杉景勝は東西合戦で西側についてしまったことを謝罪し
徳川家に尽くすことになるが、当時はあまりにもキリスト教の普及が増大だったので
幕府はこれに恐れキリシタンの処刑や追放などを各藩に命じた。

しかし、上杉景勝はこれに応じなかった。理由はキリシタンでも優秀な人材が多かったようだ。
その優秀な人材を削るということは『国に優秀な人がいなくなるようでは国は栄えない』と考え
「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答え幕府の命令を拒否した。
それと共に、すべてが徳川幕府の言いなりではない。という上杉家の考えが伺える。


一度だけ笑ったことがある
しかし、眼光鋭く無口で常に重々しい雰囲気ではあったが、たった一度だけ家臣達の目の前で
笑ったことがあったそうだ。それは景勝が飼ってた猿が、頭巾を頭に乗せ景勝の座に座り、景勝が
家臣達に対する時の状況を猿が真似したのを見て、思わず笑ったそうだ。

城の前にある庵会津若松城別名は鶴ヶ城城の天守閣から撮影入口の橋鶴ヶ城▲関ヶ原合戦までは、上杉景勝は会津藩120万石で入部してた▲


前田慶次郎が見る上杉景勝の人物像
京都の伏見城か大阪城にて、大名達の宴が開かれたとき、前田慶次郎はお呼ばれされなかったが
うまく紛れ込み宴に出席したそうだ。慶次郎は猿の面を被り手拭いで頬を覆い、面白おかしく踊り大名達の膝へ乗り猿真似をして陽気に振舞った。膝の上に乗るとは失礼ではあるが、宴によるものだから誰も怒りはしなかったようだ。しかし景勝の前に来たが景勝の膝にだけは乗れなかったそうだ。

前田慶次郎は後に「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」
と語ったそうだ。破天荒で歌舞伎者と呼ばれる前田慶次郎ではあったが、上杉景勝に対する敬意の表れを感じ取れる話だ。

前田慶次供養塔の写真家紋
▲前田慶次供養塔とそこにに付いてた家紋▲

と、まぁ一言でいえば怖い雰囲気がする武将だったのだろう。逸話を眺めてもどれも
ありえなそうな話ではあるが、それほど怖かったというイメージを表現した創作かも。
いつも刀に手をかけ、寡黙なためその様に見えるのかもしれない。

景勝の体格については、スラーっとした直江兼続とは対照的に、景勝は背が低くずんぐり
むっくりした体格だったようだ。



記事のコメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する


| 山形旅行 - 観光、温泉、名所、宿泊 |




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。