最上の武将・鮭延秀綱が入城した鮭延城跡(真室城)

▲真室川町にある、
鮭延城(さけのべ)の本丸跡にある石碑
- ・場所:山形県真室川町の真鶴橋の近くの線路の踏み切り近く
- ・真室川町の名物・山菜、なめこ、真室川ラーメン、漆器

真室川と鮭延城跡を観光
真室川町には武勇で知られる、最上の武将の鮭延秀綱が居城してた城跡がある。
この城は真鶴城や真室城とも言われており、
現在の本丸には碑が置いてあり眺めの良き
風景が見れる所となっている。
搦手門があったとされる門跡から
本丸へ登れる道があり、時間にして
7~8分で到着するような短い距離です。
▲鮭延城の搦手門跡(からめてもん)
鮭延城と鮭延秀綱の歴史
- 鮭延城跡は町指定重要文化財に指定されているが、初めに建立された年代は定かではない。
鮭延秀綱はもとは小野寺氏に仕えていた武将で、真室川を与えられ鮭延と名乗る。
天正9年(1581年)当時16歳の城主・鮭延秀綱の時代になると、北に勢力を伸ばしつつある
山形城の最上義光と戦になる。城を取り囲まれ兵糧は尽き果て、3ヶ月の篭城戦の末
最上家に降伏した。最上義光はこの城を拠点に庄内へ進軍し、鮭延秀綱は最上家に臣従し
数々の武功を上げていった。長谷堂城合戦では、少数の兵を連れ直江兼続が率いる
上杉の先陣に攻撃をしかけ戦果を上げた。
その武勇については、永慶軍記に直江兼続が「さても今日鮭延が武勇、信玄・謙信にも
覚えなしと、後日に直江が許より褒美をぞしたる」と言わしめた誉れ高き名将であり
直江兼続とは敵軍にあったが、兼続が鮭延秀綱の見事な武勇を見て褒美を与えたほどだ。
鮭延秀綱は最上家の家老となり、1万1千500石を与えられ鮭延越前守秀綱と称した。
最上家改易後は鮭延城は壊される
元和8年(1622年)になると、最上家改易にともない秀綱は総州佐倉藩・土井家に預けられ
翌年の元和9年に戸沢政盛が6万石で入城した。しかし交通が不便だし狭すぎると
新庄市沼田に新城(新庄城)を築城。戸沢政盛が新庄へ移ると、鮭延城は取り壊されたと伝わる。
鮭延秀綱は古河の地で84歳で没した。