大河ドラマ天地人の記念イベント 川中島合戦・夜の陣


川中島合戦の武田信玄
▲米沢市で行われた米沢上杉戦国絵巻 夜の陣のリハーサル(武田信玄と家臣)

  • ・開催日時:2009年9月25日~27日。米沢上杉戦国絵巻 夜の陣は26日。

  • ・場所:米沢城・上杉神社、川中島合戦は最上川(松川)河川敷

  • ・米沢市の名物・特産品:米沢牛、米沢鯉、舘山りんご、うこぎ、雪菜、織物、笹野一刀彫

  • ・宿泊先:米沢市格安宿泊ホテル旅館

上杉軍

上杉神社
気分は日本映画の巨匠・黒澤明監督
毎年春に開催される上杉謙信と武田信玄
争った合戦を再現している米沢上杉祭りの
川中島合戦だが、今年はNHK大河ドラマ
天地人の放送を記念して、夜に再現するので
米沢市を観光しました。

撮影してて想ったのだが、黒澤明監督の
映画「影武者」を撮っている気分が味わえた。
まずは米沢城の上杉神社へ挨拶しに参拝。
     ▲上杉謙信を祭神としてる上杉神社


おや、また兼続どん丼まつり開催したのか
上杉神社の参道脇や松川河川緑地では、兼続どん丼祭りや米沢旨いものフェスタが開催され
山形の名物の芋煮や米沢牛が販売され賑わってた。
27日には棒杭市なども行い、会場の雰囲気的には去年行った天地人プレイベントぽい。

愛の勇者ナオエイト

おぉ!直江兼続のロボだ!
直江兼続のマスコット『かねたん』でも居ないかな~と伝国の杜へ入場すると、中は観光者が
いつもより多く栄えていた。記念写真コーナーも妻夫木聡氏の直江兼続から、さらに北村一輝氏の
上杉景勝のパネルが新たに追加されていた。本物見たことあるけど、若干小さい気がするかな。

残念ながらかねたんは留守のようで周囲を眺めていたら、直江兼続のロボ『愛の勇者 ナオエイト』
が置いてあった!これがいつぞや新聞で見たやつか~と観察していると、このロボは小さいながらも
細かな動きで動くし喋る。相手の顔も認識する機能もあるようで、予想以上に興味が持てたよ。
クイズにハズレると「此れはしたり!」と喋るともっと良かったか~

武田軍


>>米沢上杉戦国絵巻 夜の陣の続きを見る



米沢市万世堂森に眠る前田慶次郎跡の解明に迫る


前田慶次供養塔
▲米沢市万世堂森にある、前田慶次供養塔の写真

堂森善光寺
堂森善光寺の和尚に習いを受ける
前回、こちらの前田慶次の記事で堂森を
巡った訳だが、多くの謎を残したまま終了。

直江兼続に続き人気の高い武将であるが
その割りには情報があまり上がらない。
一体、万世堂森にはどれだけ慶次郎の跡が
残っているのか疑問に感じるものだ。
しかし、今回ひょんなことから、堂森善光寺の
和尚に習いを受け謎から解明に繋がった。
            ▲堂森善光寺


傾奇者・前田慶次郎とは?
前回も前田慶次の記事で話したが、今回も知らない方のために軽くつまんで説明しよう。
まず慶次郎は、加賀百万石の前田利家の甥にあたり、利家と共に織田信長に仕えていたが
お城での仕事が嫌で、利家を水風呂に入れて出奔したという逸話がある。

それで京の街をお供と旅していた所、上京していた上杉の重臣・直江兼続と出会い気が合うようで
そのまま上杉景勝へ条件付きで仕官した。京から山形の米沢まで旅した記録は現在も残っており
前田慶次道中日記にその内容が見られる。

漫画の『花の慶次 -雲のかなたに-』では、前田慶次郎は若い人相で描かれているが
実際は老年で60歳ぐらいで年齢で米沢にやって来た。加賀には妻と子を置いてきて、老年ながらも
夢を求める慶次郎の無頼気な所が好きだと天地人の著作:火坂雅志さんは語っておった。

長谷堂城での戦いでは負けはしたものの、槍の名手でもあった慶次郎は朱色の槍を手にし
勇猛果敢に殿(しんがり)役をこなし、最上軍の追ってから上杉軍を米沢に撤退させたと伝わる。
その後慶次郎は、堂森の無苦庵(むくあん)で余生を過ごした。

前田慶次グッズと前田慶次供養塔


善光寺前田慶次の登り旗

おや!?本堂に入れそうだぞ
堂森善光寺は真言宗豊山派の寺院で、出羽の善光寺とも呼ばれている。善光寺如来像と
見返り阿弥陀像が安置され、県指定有形文化財となっている。
して、その本堂の階段を登り横から中へ入れます。前田慶次供養塔の方ばかり見ていると
案外気付かない。中には和尚がおり、前田慶次グッズが販売されてました。

前田慶次グッズ前田慶次の扇子

前田慶次供養塔
前田慶次グッズが増えました
さっそく本堂に入ると机一台分ぐらいの広さに
多くの前田慶次グッズが置かれていた。
本堂の観覧料金は確か300円だが、グッズ売り
場を眺める程度なら入場料はいらないとのこと。

ここで平成21年2月吉日にできた『米澤前田慶次の会』による観光マップを入手できるので和尚に
気軽に話しかけると良い。


前田慶次供養塔について
して、ここで堂森にまつわる前田慶次郎の跡や、米沢の観光処について情報を収集できた。
まず右上の登り旗に見る家紋は前田慶次の家紋ではなく、加賀藩の家紋なのだそうだ。

慶次郎は慶長17年(1612)6月4日に亡くなったと諸説に有るそうだが、埋葬されたのが善光寺
なのか、今は火災で亡き寺・一花院なのか定かではない。そのためこちらで昭和55年に
慶次の御霊を祀るため堂森で前田慶次供養塔を建立した。
供養碑を覆う外観部分は、およそ2,3年前(現2009年)に造られ供養碑を保護したのだとか。

前田慶次グッズ


>>米沢・前田慶次郎の歴史跡の続きを見る



不景気の世に見る米沢藩主・上杉鷹山公の経済改革


上杉鷹山
米沢城・上杉神社の参道にある上杉鷹山公の全身銅像。

上杉鷹山公
上杉鷹山公に学ぶ経済対策
現在の世界各地や日本では、不景気の世が訪れ
正社員や派遣切りで失業者が増えどこも苦しい。
が、今よりさらに苦しい世を経験してきた地がある。
それは米沢藩だ。果たして彼らはどのようにして
そのような危機を乗り越えたのだろうか?

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』
という言葉がある。つまり大抵のことは過去の
人々が対策を取り、乗り越えてきたのである。

今の世にそれが通用するかは少々疑問だが
今だからこそ必要とされる知識か・・・
と考え、米沢で学んだ知識を合わせまとめてみた。

松ヶ岬神社
米沢城跡と鷹山公を祀っている松ヶ岬神社

上杉鷹山とは?
宝暦元年(1751)7月20日に、高鍋藩主・秋月佐種美(たねみつ)の2男として江戸屋敷で生まれた。
幼名は松三郎、または直松。16歳に元服して治憲(はるのり)と改名。
家督を息子に譲り、隠居後52歳に鷹山(ようざん)と名乗る。

旧暦の1769年8月23日に幸姫(よしひめ)と結婚し、10月27日に19歳の時に米沢へ入部する。
江戸の正室・幸姫に婿養子として嫁ぎ第9代の米沢藩主となったが、幸姫に至っては生まれつき
心身の発育が遅い障害者で30歳で病死。普通の生活を送れず2人の中には子は生まれなかった。
米沢藩の方の側室にはお豊の方がいて、生まれた子・治広(はるひろ)には35歳で家督を譲り
第10代米沢藩主に継がせる。

鷹山公は米沢藩で反対勢力に押されながらも大倹約令を実行し、米沢の財政を立て直し
発展の基礎を築いた人物である。華美な生活は一切せず、質素倹約な生活を自ら行い
藩の手本として生涯続けた。故に鷹山『公』と付けられ呼ばれるのが一般的である。

米沢城跡

米沢藩の借金地獄と財政圧迫の原因

まずは当時の米沢藩がどう苦しかったのか?を簡単にまとめてみた。

  • 1.慶長6年(1601)の関ヶ原合戦後に、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減石されしまった。

  • 2.上記記載により石高を大規模に減らされたが、上杉家の異常に多い家臣数が変わらなかった。

  • 3.第3代・上杉綱勝が後継者を定めず急死し、吉良上野介の子が上杉の家督を継ぐ際に
     手続きの申請に不手際があり、米沢30万石から15万石に減石されてしまった。

  • 4.上杉鷹山が家督を継ぐ前の、歴代の藩主や財政担当者が、財政状況に対し無関心だった。

  • 5.上杉家は古い格式を重んじ、着る・食べる・乗る・習慣的な行事に費用は惜しまず金を使った。

巡る巡る負のスパイラル
大きく分けるとザッとこんな感じだ。上の内容について軽く説明すると
2は寛政5年(1793)の分限帳によれば家臣数が5398人とある。会津藩時代の頃とほとんど
変わらぬ人数だ。それで領土が、会津120万石から米沢30万石に減らされ
今で言うと大赤字の出る会社なのに対し、社員をリストラにしなかったのだ。

4と5については、上杉家では謙信の時代より伝わる格式があったようで、何をやるにしても
定まったことを行っていた。例えば習慣的な行事の移動にしても家来やお供の人数、
着る物なども定められており、格式を重んじすぎて大赤字が出ようとも変えようとしなかったのだ。
さらに上杉家の藩主や財政担当者らは、借金がいくらあったのか把握していなかったようだ。

上杉家第4代までの系図

吉良上野介に乗っ取られた米沢藩
もっとも負のスパイラルに拍車をかけたのは3に登場する、幕府高家衆・吉良義央(きらよしひさ)
からの代からだ。ご存知の方も多いだろうが、時代劇や映画でよく知られる忠臣蔵で
赤穂の獅子達らに、殿の恨みと斬られた吉良上野介(こうずけのすけ)と呼ばれる人物。

上杉家では第3代・綱勝が急死すると、綱勝には子も養子もいないので改易の危機に立たされた。
吉良義央と綱勝の妹・参姫の子・綱憲に家督を継がせるよう、幕府に願い出て何とか継がせた。
しかし改易にならずに済んだが、領土15万石を取り上げられてしまい、米沢15万石になった。

2代・定勝の代までは貯金が14,15万両ほどあった。現在の価値と比べると90億円ぐらいの
貯金ではなかろうか。それが4代・綱憲が継ぐと寛政の削減までは6万両ほど貯金が残っていたが
華美な生活により財政が次第に圧迫していった。

>>上杉鷹山の続きを見る



直江兼続の歴史が残るゆかりの地の地図と内容


山形県米沢市地図マップ
▲画像クリックで地図拡大表示可能
山形県米沢市丸の内1丁目周辺の地図 - Yahoo!地図情報
米沢市観光・上杉神社 - Googleマップ

米沢城跡
米沢市の直江兼続をめぐるゆかりの地
松岬神社・稽照殿・伝国の杜の場所は、米沢城・上杉神社の所にあります。
米沢市で直江兼続を観光する上で、4,5時間の眺める時間があるのだとしたら
稽照殿や伝国の杜、宮坂考古館、春日山 林泉寺あたりを眺めると良いかも。
毎年4月29日~5月3日には上杉謙信の祭り・米沢上杉まつりがあるので、セットで眺めに来ると
より米沢市の観光を楽しめるかと思います。(かなりの観光者で溢れるので時間に余裕が必要)

1日米沢市に宿泊しての観光だと、興味があるなら前田慶次の跡や上杉家御廟所
眺めるてはいかがかな。
白布温泉は地図には表記されていないが、大平温泉からさらに県道2号を車で
18分ぐらい走らせた山の中にあります。米沢城跡から距離が遠いので車での移動になる。
前田慶次を巡った観光スポットでしたらコチラ⇒米沢・前田慶次郎の歴史跡

場所名 内容

松岬神社(まつがさき)
伝国の杜の手前にある神社で、祭神は上杉景勝、直江兼続
上杉鷹山、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政の6柱を祭神としている
神社。上杉鷹山公以降の名前については、米沢藩が貧乏だった
時期に藩を支えた方々です。松岬公園の側にある神社です。

米沢城跡(よねざわ)
現在の米沢城の本丸跡には、上杉謙信公を祭神としている
上杉神社が建っている。上杉景勝が会津120万石の城主だった頃に
直江兼続は米沢をまかせられ、米沢城の城主だった。
関ヶ原合戦後は、会津120万石から米沢30万石に減封されたため
米沢城は兼続の上司の上杉景勝へ返還された。
参考記事:米沢城・上杉神社

稽照殿(けいしょうでん)
上杉神社の宝物館であり、上杉神社の隣にある建物です。
中には直江兼続所用の愛の前立てや、上杉家に伝わる甲冑や
刀剣類、衣裳や絵画などがたくさん納められています。

休館日:12~3月下旬頃まで。1月1~3日や、上杉雪灯篭まつりの
期間は別だが、冬の期間は基本的に予約をしないと入れません。
開閉時間:9:00~16:00 電話:0238-22-3189 一般:400円

伝国の杜(でんごくのもり)
米沢市上杉博物館では上杉家の文書や上杉本洛中洛外図屏風
などが多数あり、現在(2009年)では天地人博2009が開かれており
大河ドラマ天地人で使用された小道具を多数展示している。

開閉時間:9:00~17:00 電話:0238-26-8001 一般:700円
休館日:4~11月の毎月第4水曜日、12~3月の毎週月曜日

直江屋敷跡
直江兼続が生きていた当時は、この周辺あたりに兼続の屋敷が
建っていたとのこと。
現在は看板のみを残す場所で、民家が建っていて昔の面影を
見ることは無い。場所は伝国の杜の裏側の道路を挟んだ所にある。

春日山 林泉寺
直江兼続とお船のお墓がある。他には武田信清などの墓もあり
上杉家の重臣達の墓も多数ある。米沢三名園の一つがある。

開閉時間:9:00~17:00 12月~3月は要予約。
入場料:お墓は100円。林泉寺の堂内は300円。
参考記事:春日山 林泉寺

宮坂考古館(みやさか)
直江兼続が長谷堂城合戦で着用した、梵字で書かれた愛の前立て
前田慶次や上杉謙信などの甲冑が展示され、まさに圧巻。
別館には大阪冬の陣で活躍した火縄銃が展示されている。

開閉時間:10:00~17:00(10~3月は16:00まで)
休館日:月曜日、祝祭日の次の日 一般:300円

直江石堤
現在では眺めおっとりとした公園だが、当時の直江兼続がいた頃は
大雨が降ると松川が反乱し、城下町は洪水の被害を受けたので
自ら赤崩山に登り、川の状況を観察し堤防を築いた。
近くには蛇土手と呼ばれる、石を積み上げた堤防が現在も残る。
参考記事:直江石堤

龍師火帝の碑(りょうしかてい)
直江石堤から上流の方にある碑で、龍師火帝の文字が刻まれてる。
これは直江兼続が水と火の神に祈った碑で、米沢の城下町を
洪水や旱魃の被害を防ぐために建てた碑です。
ここから水を引いて、田畑を潤す水や城の堀の水を調達している。
参考記事:龍師火帝の碑

芳泉町(ほうせん)武家屋敷
現在も武家屋敷が数件ほど残っており、ウコギが植えられている。
兼続は下級武士をこの地に住まわせ、松川が洪水で
反乱してしまった場合に、すぐに対処しやすいよう配置した。
ウコギを米沢に初めて持ち込んだのも直江兼続です。
参考記事:米沢市芳泉町の武家屋敷

法泉寺(ほうせんじ)
上杉景勝と直江兼続が創建した神社で、当時は禅林寺と呼んでた。
現在はもう無いが、九山和尚を招き禅林文庫という学問所があった。
兼続は朝鮮出兵の時に、戦の合間に中国で本を収集し
禅林文庫に納めていた。
参考記事:法泉寺

西明寺(さいみょうじ)
越後から米沢へ移封にともない移ってきた神社で
ここには直江兼続が鷹狩りの際に訪れ読んだと伝わる
漢詩があり、現在もその漢詩の内容が石碑に刻まれている。
参考記事:西明寺

東源寺(とうげんじ)
上杉家の移封にともない会津・米沢と移転してきた。
直江兼続を祀るために伽藍の建物を建立し
兼続とお船の嫡子・平八景明の位牌を祀っている。
五穀豊穣を祈願し、境内には五百体の羅漢像がある。

白布温泉(しらぶ)
直江兼続はこの高湯で、江州国友村と泉州堺から鉄砲鍛冶職人
を招き、ここで火縄銃を作る工場を建て大量に鉄砲を作っていた。
現在では、直江城州公鉄砲鍛造遺跡の碑の記念碑だけが残る。
参考記事:白布温泉


>>直江兼続をめぐる観光マップの続きを見る



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