武士の勇を貫き落城した最上軍の支城、畑谷城

▲小さな山城・
畑谷城(はたや)の本丸跡
左の碑『旅人よゆきて伝えよ 最上のために戦い たおれし者を』
奥羽の関ヶ原の一つ畑谷城跡。上杉軍率いる直江兼続が、山形城侵攻により攻め滅ぼしたお城。
江戸に到着した徳川家康から7月7日付けで、最上義光に上杉家討伐の書状が届き
最上義光は山形へ戻り軍事を備える。最上義光より一足先に、山形へ戻っていた江口五兵衛光清が、直江兼続が率いる2万余の軍勢を迎え撃った話。


▲上杉家の重臣・直江兼続 ▲実現しなかった上杉包囲網図(拡大可能)
関ヶ原合戦の根源はここから始まった
「景勝、謀反の志あり」すべてはこの一言で天下分け目の関ヶ原が始まった。
そう徳川家康の耳に知らせが入ると家康は上杉景勝に上洛の意思をせまった。
上杉家の包囲網と石田三成の挙兵
直江状を読んだ家康は腹を立て上杉家の討伐を決意し、大阪城を離れ江戸城から下野小山まで
やって来て陣を降ろした。会津攻めには南から家康軍、西の越後から村上・堀・溝口の軍
北東からは仙台の伊達政宗、そして北からは
山形城の
最上義光軍で、会津の上杉景勝を
包囲する予定だった。
しかし、豊臣政権を守ろうとする石田三成の挙兵の知らせを聞くと、上杉の警戒を最上義光と
伊達政宗に任せ家康は江戸城に引き返した。


▲最上義光 ▲伊達政宗
直江軍の進軍と最上軍の戦法

最上軍と上杉軍との激突
徳川家康に命ぜられた最上義光は秋田城主の
秋田実季(さねすえ)と組んで、当時の上杉領土の志駄義秀が守る酒田城を攻めようとした。
その知らせは上杉家にも届き、9月3日の戦略
会議で最上侵攻を決定した。その後、直江兼続は
米沢城へ帰還し兵を整え山形へ出兵。
▲狐越街道
最上領土へ軍勢で攻め入る上杉軍
同時に庄内側からも志駄義秀・下吉忠の3千が最上領へ侵攻し、六十里越、狐越、上山口の
3方向から侵攻した。上杉軍は9月12日に白鷹山(しらたか)へ到着すると約2万~2万4千の軍勢を
率いて最上領に先制攻撃をしかけた。上杉軍の総大将は米沢城6万石の城主・直江山城守兼続。


畑谷城の入口から本丸へ向かう道

直江軍の軍勢に対する最上義光の戦法
9月13日、
直江兼続の主力軍は狐越街道から入り、白鷹山の北にある山形城を守る最前線にある支城の畑谷城へ攻め入る。
畑谷城を守るのは城将・江口五兵衛光清
(えぐちごへえあききよ)と約3百余の兵。
最上義光は『明け逃げ』という多くの城を放棄して逃げ去り、兵力分散を防ぐ戦法をとった。明け逃げをすることにより、戦乱による人命や建物の損失と、村や田畑を荒らされずに
済むからだ。
そして本城の
山形城、支城の
上山城と
長谷堂城の3箇所を拠点にし、上杉軍の軍勢
に立ち向かおうとしたのだ。
▲畑谷城略図
最上軍の総兵数は、多く見積もってもおよそ1万余りだったという。故に明け逃げをして兵を
集結する必要性があった。
勇名高き江口五兵衛光清と三百余の兵

▲本丸跡にある
江口五兵衛光清の碑
江口五兵衛光清の揺がない武士の勇
最上義光が明け逃げを選択したが、畑谷城にいる江口光清は戻って来なかった。最上義光は
再三逃げるよう江口光清に指示を出したが、江口光清は「敵を目の前にして城を捨てたとあっては
武士たるもの末代の名折れ」と言って聞き入れなかったのだ。
一方直江軍は畑谷城へ使者を出し「無益な戦いをしたくないから、城を明け渡せば名誉ある
処遇をする」と言い渡したが、江口光清はこれを拒絶し「城を欲しくば闘って奪うがよい」と言い返し
勇猛果敢にも直江軍2万余の軍勢に斬りかかっていった。
しかしやはり数の上でかなわなく、畑谷城はわずか2時間で全滅した。江口光清は自刃し
三百余の兵士も誰一人として生き残らなかった。最上義光は畑谷城へ援軍を送ったが
あまりにも早く落城したので失敗に終わった。


畑谷城にすぐ側にある長松寺の墓場には、江口五兵衛光清と三百余の兵の墓がある
谷柏相模守の涙の武士の絆

▲左の山が畑谷城。真ん中ちょい右の山の間にあたる部分が畑谷城の入口

最上義光が畑谷城へ送った援軍の裏舞台
最上義光は畑谷城が襲われていると知ると
谷柏相模、飯田播磨、富並忠兵衛、日野伊予らを援軍として送ったが、到着する前に畑谷城が落ちたと知ると援軍達は引き返そうとしたが
谷柏(やがしわ)と飯田は引き返さず「城は落ちても、残った兵や領民がいるだろうから救わねば
ならぬ」と言い現場へ向かった。
▲畑谷城の入口にもお墓が点々とある
飯田の殿軍と谷柏相模守の突撃
山道を登っていくと勝ちにのった上杉軍の兵が、逃げ追われている落人達を谷柏と飯田が見て
飯田は谷柏に「自分はしばらく敵を防ぐから、逃れてきた人々達を山形城へ連れて行ってくれ」
と頼み、勇敢にも上杉軍の軍勢が押し寄せるなか突入していった。
谷柏相模守は言われた通り途中まで連れ帰っていたが、飯田が討ち取られたのに気づくと
せめて飯田の首だけは取り戻さねばと思い、谷柏は落人達に山形城の方向を指さし自分らで
山形城へ行くように指示し、谷柏は上杉軍へ攻め入り蹴散らし勝利した。
谷柏相模守は飯田の首をひたたれに包み、涙ながらに持ち帰ったという。
直江兼続はその時の状況を知人宛の手紙で「撫で斬りを命じ首を5百余りも取った」と書いたそうだ。(撫で斬りとは、戦闘員でもない女子や子供なども含め、片っ端から切り捨てること。)
人は斬れども、仏までは斬れず
上杉軍は畑谷村を襲い壊滅させたが、
長井市の総宮神社の宝物殿には、畑谷村を襲った際に
直江兼続が戦火の中から戦利品として収集したと伝わる、木造彩色神像五躰がある。
どこに置いても畑谷村の方に、向きを変えるという言い伝えがあるそうな。
その後、畑谷城を落とした後に上杉軍は
長谷堂城へ向かうのであった・・・
畑谷城の場所
畑谷城跡への行き方は、富神山(とかみさん)側から行った方が良いかも。
青い看板で『県民の森』行きの看板がいくつか置いてあるからだ。ひたすら登りの山道になる
訳だが、県民の森の大沼を過ぎたあたりから下りになる。そのままどこにも曲がらずに下って行くと
小さな村が見えてくるが、それが山辺町大字畑谷である。
そのまま真っ直ぐに進んでしまうと、白鷹方面へ行ってしまうので注意したい所だ。
村が見えるとすぐに右側へ曲がると長松寺へ行ける。曲がる前に畑谷の周辺の地図が建ててある。そこからの距離は200mぐらいで畑谷城へ到着する。尚、駐車場は特になく。みんな勝手に道路の
脇に駐車して山へ登っているようだった。山の本丸跡へは10分もするかしないかで到着できるので
たいした距離ではなかった。
直江兼続が霞城と呼んだ地、富神山の場所
富神山へは県民の森へ行く道をそのまま登っていくと、縦横約2mぐらいの木でできた周辺の地図の看板が建ててある。そこの脇に富神山入口と書いてある。駐車場はその場所に約3,4台駐車できるスペースがある。そこに止めてあとは歩いて現地へ行くのだ。
富神山の入口は個人所有地の畑を通り抜けて行くので、畑を荒らすアホぅなことは決して
してはならん。山の神が見ている。そのまま真っ直ぐ進むと、左右に道が分かれているが
どっちへ進んでも同じ。到着する10mの最後の登りが急な坂で休みながら行ったほうが良い。
頂上へは約15分くらいで到着する距離にある。


富神山の頂上。ここから直江兼続は山形城の様子を眺めていた
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